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昨年、日本の音楽雑誌サラサーテへ寄稿させて頂きました。
新型コロナウイルスの第一波に襲われていたクレモナについて執筆いたしました。
ここに再編集して掲載いたします。

 2月19日、一人の中年男性がクレモナの国立病院に緊急搬送されました。
病院の上層部が緊急で招集され、感染症医師のパン氏もそこへ呼ばれました。遂にクレモナでもあのコロナウイルスが確認された、との報告を受け緊急で専用外来を設置、感染拡大に備えました。しかし、既に感染拡大は気づかぬ間に広がっていたのです。専用外来を設置した直後から「Tsunami 津波」の様だと表現されたほどの数の患者さんが病院へと運ばれてきました。そしてクレモナの国立病院は1週間後には新型コロナウイルス患者受け入れ専用の病院として体制を緊急で構築する事を迫られました。
こうして、クレモナの新型コロナウイルスとの闘いは始まりました。

 日々増え続ける患者さんを受け入れるため、周辺の病院からもベットや医療設備が運び込まれ、最終的には950床にまで増床されました。現場は予期せぬ事態に混乱を極め、感染症対策には向いていない構造のセクションなどもあり、最終的には医療スタッフの10%が感染してしまい、現場から退く事になりました。
そして、その中で一人の医師が命を落としてしまいました。この医師(御遺族に配慮し詳細は伏せます)は神経内科の医師でしたが、彼が勤務する神経内科のセクションも新型コロナウイルス患者を受け入れを開始し、神経内科のスタッフ全員が対応に当たる事になりました。然し彼は重い病気を患っており、まだ治療が完了していない状態であった為に現場に出る事はリスクが高いと、周囲は止めました。しかし彼は、「自分のセクションに来た患者さんが、命を落としていくのを黙って見ているわけにはいかない」と、リスクを承知で現場に立ち続け、患者さんの治療に当たり続けました。ウイルスは人間が少しでも油断をすると見逃しません、連日休みなく治療にあったっていた彼自身も残念な事に新型コロナウイルスに倒れたのでした。

 ニュースなどを観ていると、新型コロナウイルスに対応する医療スタッフは皆、防護服にフェースシールドにマスクを着け、一見するとまるで患者さんとは異質の、観察者の様な距離を感じます。しかし、実際に中に入っているスタッフも同じ人間なのでした。そして、それは自分の恐怖を心の隅に押しやって誰かのために尽くし戦い続けている人間なのでした。
都市封鎖下でも感染が広がったクレモナでは、夫婦や家族で運び込まれてくる人達も多くおりました。そこで、少しでも家族や夫婦が一緒にいられるようにと、部屋割りに頭を悩ませるスタッフ達がいました。
一緒に運び込まれ、奥さんだけが集中治療室に運ばれた時、心配する旦那さんに奥さんの日々の病状を報告し続け、人工呼吸器が外せるまでに回復した時には、旦那さんと一緒に泣いて喜んだ人達がいました。そして皆、本当に感謝しながら退院していきました。
世界でも苛烈を極めたクレモナの病院は、世界中にショッキングな映像ともに連日報道されておりました。ですが、そこは報道で感じるほど殺伐としていた訳では有りません。厳しい中でもしっかりと人間味のある現場でした。

 感染が急拡大していた3月中旬、アメリカのボランティア医療団体サマリタンパースが大量の医療設備を伴った専用機でクレモナへ降り立ちました。クレモナのバイオリン博物館の設立にも尽力した、クレモナの名士アルベディ氏が滞在費用を全て負担し、招聘したのです。彼らはアフリカ、コンゴのエボラ対策やイラク戦争の野戦病院に従事するなど、百戦錬磨の医師達で、わずか1日で80床の仮設病棟を作り上げ、直ぐに患者さんの受け入れを開始しました。クレモナの病院との連携により完璧なサポート体制を築き上げ、献身的な治療により数多くの患者さんの命を救いました。
そして感染が落ち着き始めた5月中旬、彼らは本国アメリカへと引き上げる事になりました。その際のスピーチで、このチームを率いていた若き女性医師ケリー氏は言葉に詰まり、泣き始めました。その時、百戦錬磨の彼らにとっても苛烈な現場だったのかと皆が思いました。然しそうではなかったのです。彼女は言いました。「今まであらゆる過酷な現場に立ってきましたが、私達をここまで温かく迎え入れてくれた国は有りませんでした。患者さんからスーパーのレジ係の人まで、本当に家族のように接してくれて、この国を離れるのがつらくなりました」と。
もう一人のスタッフもインタビューで語ります「患者さん同士が直ぐに仲良くなり、スタッフも交えてまるで古くからの友人のように談笑していました。そして一人が退院すると、いつの間にか電話番号を交換していて、毎日の様に電話をかけては、まだ退院できていない患者さんを励ましていたのです。こういう現場を始めてみました」と。

 イタリアには「Umanità人間味」が有ります。
社会が窮地に陥ったとき、医療も経済も政治も必要です。しかし、それは機能面の回復でしかありません。この人間味こそが、絆を深め孤独を遠ざけ、心の傷をいやし、立ち直らせてくれるのだと思います。そして、これこそが長い歴史の中で何度も危機を経験してきたイタリアの、また立ち上がる力、レジリエンスであり、知恵であり強みだと思います。
音楽を楽しまれている皆さんであれば、イタリア音楽のあのなんとも甘く、時にドロドロとした、人間味溢れる表現を味わわれたことが有るかと思います。それが人を創造へと駆り立て、人を魅了し、そして私はそれが人を救いもするのだという事を目の当たりにしました。

イタリアは数多くのものを失いました。課題もまだまだ山積しております。それでも人間味は失っておりません。イタリアは大丈夫です。また立ち上がります。
皆さんも是非イタリア音楽を楽しんで頂き、この人間味を心の糧にして頂ければ幸いです。

西村翔太郎

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西村翔太郎

1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。
2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。
2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。
District of Cultral Violin Making Cremona会員
関西弦楽器製作者協会会員

主な楽器使用者

アレクサンダー・スプテル氏
(ソリスト・元SSOコンサートマスター)
森下幸次 氏 
(ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)
木村正貴 氏 
(東京交響楽団フォアシュピーラー)
立木茂 氏  
(ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長

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