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Shotaro Nishimura

クレモナの名を冠するストラディバリ1715年「クレモネーゼ」解説完全版

 
 5月1日大阪にて、関西弦楽器製作家協会の展示会が行われました。
展示会の企画展示のコーナーでは、ストラディバリ1715年「クレモネーゼ」をモデルにしたバイオリンが一堂に会しました。
そして昨年同様、そこで配布された解説パンフレットの執筆をさせて頂きました。
誌面の関係のためカットした部分を含め、完全版としてこちらに掲載いたします。
まだ論文にもなっていない、バイオリン博物館での最新の解析結果も含んでおりますので、こちらが日本語では一番包括的な解説になっているかと思います。

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 Il Cremonese


 その男は待ちわびていた。
1715 年クレモナ、ポーランド王室の楽団を率いてクレモナでのコンサートを大成功に導いたバイオリニスト、ジャン・バティスト・ヴォリュミエ(1667-1728)は、新たな任務を担いクレモナに数ヵ月滞在する事になっていた。それは、ポーランド王室が注文したストラディバリのバイオリン12 台の完成を見届け、王室へ無事に持ち帰る事であった。
 当時のクレモナは、スペイン継承戦争が終わりを迎えたのも束の間、疫病が発生し、街中に病院が急造される程に荒廃しており、ようやく持ち直し始めていた経済もまた、傾いてしまっていた。この影響は少なからずバイオリン製作家達にも及んでおり、1715 年、クレモナのバイオリン製作の元祖であるアマティ家の4 代目ジロラモⅡ・アマティは、借金の返済に事欠き夜逃げをしている。
また、ガルネリ家2 代目ジュゼッペ・ガルネリが、後に息子であるガルネリ・デルジェスを生涯苦しめていく事になる多額の借金をしている。ルジェーリ家三男ヴィンチェンツォ・ルジェーリはこの年を振り返り、苦難の日々であったと手紙に残している程であった。
 そんな中、既に71 歳を迎えていたストラディバリだけが、ヨーロッパ中の顧客から絶え間なく舞い込む注文に忙しくしていた。1900年代初頭のヒル商会の資料によると、確認した楽器の本数だけでストラディバリは年間21 本は製作していた事になり、失われたであろう楽器も含めるとその数はさらに増え、ストラディバリはまさに黄金期を迎えていたのである。 それでも、ポーランド王室からの12 本のバイオリンの注文というのは、半年は掛かる大きな仕事であった。
 
 現存する1715 年製のストラディバリのバイオリンは、どれも名器と讃えられる楽器ばかりであるが、その中でも最も有名なバイオリンが、クレモナの名前のを冠する”Il Cremonese クレモネーゼ”である。そして、その圧倒的な存在感の裏板や作りの丁寧さから、ポーランド王室のために製作された12 台の内の1 台ではないかと考えられているのである。ようやく完成した12 台のストラディバリのバイオリンをポーランド王室へと持ち帰ったヴォリュミエは、大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハと親交が深く、1717 年にはバッハをワイマールのオルガン奏者に招いている。このストラディバリの12 台のバイオリンをバッハも見ていた可能性もある。

伝説のバイオリン奏者ヨアヒム

ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)

 クレモネーゼが次に歴史上に登場するのは1800 年代後半のパリである。 Gand&Bernardel 商会が扱った122 本のストラディバリの中にあり、数人のバイオリニストやコレクターの手に渡った後、1889 年ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の手に渡る。
ヨーゼフ・ヨハヒムは1800 年代を代表するバイオリニスト・作曲家であり、ブラームスのバイオリン協奏曲は彼の為に書かれたものである。それほどのバイオリンの名手が生涯にわたって愛用したのがこのクレモネーゼなのである。 ヨハヒムは他に数台のストラディバリを所有していたが、彼が最初に手にしたストラディヴァリは1714 年製で現在は”Joahim-Ma”と言う名で知られる楽器で、クレモネーゼと同じモデルで作られている。また、もう1 台はクレモネーゼと同じ1715 年に作られ、裏板はクレモネーゼと同じ樹から作られ、モデルや細部の作りまで酷似している双子の様な楽器であり、現在は”Joahim‐Aranyi”の名で日本財団が所有している。
ヨハヒムはこの時代のストラディヴァリの音や弾き心地を追求し、58 歳にして遂にクレモネーゼに出会い、そしてこの楽器だけは、死を前にし、甥でありバイオリニストであったハロルド・ヨハヒムへと、託しているのである。

クレモネーゼの造形

赤:PGモデル 緑:Gモデル

 クレモネーゼはなんといってもその力強く荘厳な佇まいで人々を惹きつけているが、そのボディーラインはG 型と呼ばれるモデルから製作されている。現在、ストラディヴァリが実際に使用していた型が12 台残されているが、その中で最も大きく、Grande(大きな)を意味するG と書かれている型で1708 年と刻まれており、これはストラディバリが設計した最後の型であり集大成ともいえる型である。近年の博物館による3D データによるクレモネーゼの横板との検証においても、左右非対称な箇所までこのG 型と良く一致する。基本的なラインは、他のモデルや、アマティ家が使用していたグランドパターンと呼ばれるデザインと似ているが、下部が長く膨らんでおり、それが大きく重厚感のある印象を作り出してる。 また、博物館にはG 型用のF 字孔の位置を示すデザインが残されているが、クレモネーゼは他に比べて左右のF 字孔の距離が離れて配置されており、残されているデザインとは一致しない。F 字孔の形は同じ年代の楽器に比べて太く力強く、直線的である。

 また、パフリングも同じ年代の楽器に比べて0.1mm太く、0・3 ㎜ほど内側に入れられている。コーナー部でパフリグが合わさる箇所では、ナイフで入れた隙間を黒い樹脂で埋められており、個性的な流線型を描いている。この技法はアドレア・アマティが既に用いていたが、クレモネーゼはより大胆である。
 表板の木は年輪年代学の解析によると、1690 年代に伐採された樹で作られている。裏板はクレモネーゼを何より特別なものにしていて、一枚板で杢がとても深く太く入っており、イタリア語で杢を「Marezzatura 海の様な」と表現するが、まさに 押し寄せる波を俯瞰したかのような迫力である。この時期のストラディバリは重厚感のある意匠が特徴であるが、この型やパフリングなどの造詣、裏板の杢などがクレモネーゼにより一層、力強く荘厳な印象を与えているのである。
  ニスは各所にオリジナルのニスが残っており、バイオリン博物館で行われたIR・XRF 解析では、表面全体からは安息香をベースとしたアルコールニスの保護膜が検出され、その下層からは樹脂化したオイル成分とオイルニスの乾燥促進剤である鉛の成分が多く検出される。その他、顔料に含まれる鉄分、木質に近い層では目止めに使われる石灰や珪藻土に含まれるカルシウム、カリウム、硫酸塩、鉱物由来のケイ酸塩が検出されている。また、表板の木質のすぐ上の層からはカゼインが、裏板と楽器内部からは膠が検出されている。この解析結果はバイオリン博物館で解析された他の20 台以上のストラディバリと一致する。

クレモネーゼの音
 何度もクレモネーゼを使ってコンサートを行ってきたバイオリニスト、サルバトーレ・アッカルドは「その反応の良さに驚くと共に、ストラディヴァリらしい高音域の魅力が有る」と評している。また、クレモネーゼが初めてクレモナに持ち込まれ、購入を決める際に行われた審査では、その音を「力強く広がりのある音」「輝きが有りふくよか」「4 弦ともバランスが良い」と記録されている。
それを裏付けるように、バイオリン博物館で行われた三次元方向での音の指向性の計測では、全ての弦において、全方向に満遍なく、かつ高いデシベルで音が広がっている事が確認された。また、数十人のバイオリン製作家と音楽家による音評価を元に開発されたアルゴリズムを用いた解析において、明るい音色を示す周波数帯が他の楽器よりも吐出しており、指向性においても明るい音色を示す周波数帯が前方向に強く発せられている。また、本体の重さは369g と驚くほど軽く、反応の良さが伺える。この事は、冒頭のサルバトーレ・アッカルドの証言を裏付けている。
 前述したように、楽器の内部からも膠が検出されたが、その分子構造の経年劣化が楽器表面から検出されたものとほぼ同じ程度であり、少なくとも百年単位で楽器の厚みを変えられていない事が推測される。この事から、この楽器を愛用していたヨアヒムは今と変わらない音でブラームスの協奏曲を演奏し、もしかすると、この楽器を最初に受けとったヴォリュミエもこの音色を楽しみ、また、それにバッハも聴き入っていたのかもしれない。

クレモネーゼの名を冠する

クレモナ・バイオリン博物館の宝物の間

 1962年2月5日、クレモナ市民は待ちわびていた。 それまでクレモナの観光の目玉として、様々な国際イベントを開催してきたストラディヴァリ博物館であったが、道具や資料が展示されているのみで、肝心のストラディヴァリの楽器が1台もないままであった。1959年「クレモナにもストラディヴァリを!」との機運が高まり、文化庁から資金が下りる運びとなった。しかし、バイオリンの聖地であるクレモナに相応しいストラディヴァリを見つけるのは、予想以上に困難を極めたのである。
 当初、アメリカで修復家として活躍していたシモーネ・サッコーニが選任されたが、めぼしい成果が無く、次にミラノ派の製作家でクレモナ・バイオリン製作学校の教鞭もとり、現代クレモナ派の復興に尽力したフェルディナンド・ガリンベルティが選任された。ガリンベルティはヨーロッパやアメリカ各地から売りに出ているストラディヴァリの情報をかき集め、最終的に2年間で11本のストラディヴァリが候補に挙がったが、どれも彼を満足させるものではなかった。

クレモナにストラディバリがやってくるかもと報じる当時の新聞

 1961 年ニューヨークの著名な楽器商Herrmann が、名器と名高い1710 年Wilmotte の販売を持ち掛けた。名器と言われる楽器ならばと、遥かに予算を超えていたものの、文化庁を説得し購入の話を進め、地元紙にも大きく取り上げられた。
しかし、いざガリンベルティが楽器を受け取りにニューヨークを訪れ、その楽器を見た直後に、クレモナ市へ電報で「STOP」と、振り込みを直ちに中止するように伝えている。名器と名高い1710 年Wilmotte ですら、クレモナに相応しいとは言えなかったのである。
 諦めかけていた1961 年12 月12 日、ヒル商会から電報で「2 台の素晴らしいストラディヴァリある」との連絡が入った。12 月末までにクレモナに来れないかとの返事に、ヒルは3 日後の12 月15日にはクレモナに2 台の楽器を携えて訪れていた。即座に楽器の評価と試奏会が開かれ、同日、正式にこの1715 年製をクレモナ市が購入する事を決定した。3 日間の関税と支払い手続きを経た同年12 月18 日、クレモナ市が正式にこの楽器の所有者となった。それは奇しくも、224 年目のストラディヴァリの命日であった。
 バイオリンの聖地クレモナにストラディヴァリをと動き出してから3 年、1962 年2 月5 日正式にバイオリンが引き渡された。ポンキエッリ劇場でセレモニーと演奏会が開かれ、待ちわびていたクレモナ市民からの歓喜と共に迎えられた。そして、この1715 年製のストラディヴァリは”Il Cremonese クレモネーゼ”という、バイオリンの聖地であるクレモナの名を冠する事となった。
 その後、60 年たった今でもクレモネーゼは世界中の人を魅了し、バイオリン製作家の指針であり続けている。そして、バイオリン博物館の宝物の間の一番奥に鎮座し、バイオリンの聖地クレモナを代表するバイオリンとして、その存在感を放ち続けている。

バイオリン製作家 西村翔太郎
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 この度、この展示会に合わせて製作したクレモネーゼのコピーのその後については、こちらに書いております。
併せて読んで頂けると幸いです。

西村翔太郎 Profileはこちら

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