Post Image

 イタリアの地方都市は、歴史のレイヤーが何層にも重なり形成されている。そのため、思いがけない所で歴史のレイヤーの一枚に触れ、見ていた風景の色が突然様変わりし、戸惑う事がままある。 
 
 クレモナの郊外へと出る少し手前の、固く冷たい巨大な国立病院の小さな裏口の前、そして刑務所へと伸びる道。その乾き、うらぶれた道に、突如としてローマ遺跡のような建物が姿を現す。
近づいてみると、それは遺跡などではなく、比較的新しく建てられた新古典主義の建物だとすぐに分かる。周りには90年代に、住宅不足によって市街地から押し出されるようにして作られた、くたびれた分譲住宅が建っているのみで、このローマ帝国の威厳を借りた建物は異彩を放っていた。
それは明らかにファシズム建築だった。
 少し調べてみると、これがロベルト・ファリナッチ(Roberto Farinacci1892-1945)の別荘だということがわかった。建てられた当時は畑しかなかったであろうこの場所に、このような家を建てる人物とは一体何者なのか。その興味に誘われて、彼の生涯を紐解いていくと、イタリアの激動の中を生きた、生々しいまでの生き様が浮かび上がってきた。
それはクレモナが普段覆い隠しているものをも明らかにしてくれた。
ここに要約して紹介してみたい。 



 ロベルト・ファリナッチは、1892年イゼミアという南の小さな街で生まれた。
幼少期に父親の仕事の関係でクレモナへと移り、17歳になるとクレモナで鉄道員として働き始めた。
この時から既に、政治的思想を強く持ち始め、新聞などに社会主義を礼賛する投書を書き始める。
そして、第一次世界大戦が勃発すると、本来鉄道員は参戦することを禁じられ、鉄道の保安に順ずることを命じられていたが、国のために戦う事を強く願ったファリナッチは、1916年クレモナを抜け出し志願兵として参戦してしまう。しかし翌年には、鉄道員としての身分がばれ、クレモナに呼び戻されてしまう。

この経験から、国のために身を捧げることが出来なかった悔しさが残り、愛国心を更に深めていき、急激に台頭してきたファシズムへと傾倒していくことになる。
この時期には、鉄道員として働きながら、大学で司法を学び弁護士の資格を得ている。


1920年にはファシズム鉄道員組合の組長になり、この年ムッソリーニがクレモナを訪れると、そのアテンドを務め、ムッソリーニから厚い信頼を獲得する。

1922年10月27日、社会党との政争が収まらないなか、クレモナファシスト党の実働部隊がクーデターを蜂起する。クレモナの警察署や軍の駐屯地などを同時に奇襲し、クレモナの実力組織を全て掌握することが出来た実働部隊は市庁舎へと乗り込み、実働部隊の隊長に就任していたファリナッチが、市庁舎のバルコニーからファシスト党の旗を掲げながら、クレモナのファシスト党による占領とクレモナ市長へ就任することを宣言した。

クレモナ・ファシスト党の実働部隊と中心に立つファリナッチ

 1924年には国政選挙に打って出て当選し、1925年にはムッソリーニからの寵愛を受けてファシスト党の上層部である書記局の一員に任命される。
しかし1926年にトスカーナ地方でファシスト党の活動員たちと、反ファシストの若者たちとの大規模な衝突が起き、反ファシストの若者たちに多数の死者が出てしまう。これにより反ファシスト感情が高まるのを恐れたムッソリーニは、ファリナッチに監督責任を取らせ、失脚してしまう。

 その後クレモナに戻ったファリナッチは、弁護士の仕事に就き、政界で得たコネクションを使い莫大な資産を築いていく。どうやら別荘はこの時に建てられたようである。
しかし、政治への情熱が忘れられず、膨大な量の「ファシズムレジーム」を執筆しファシスト党へのアピールを続けていく。その中で、あまりの極端な思想から遂にはムッソリーニ1頭体制を批判するネオ・ファシズムへと傾倒していくことになる。
しかし、ムッソリーニがヒトラーの民族主義への協力を表明すると、ファリナッチは強く共感し、またムッソリーニを礼賛する投書を書き始めるのであった。

そして、その忠誠心を買われ、1935年ムッソリーニがファリナッチを呼び戻し、再びファシスト党の書記局の一員となるのである。

 1936年には第2次エチオピア戦争に参戦する。
この時、戦争が終わっているにも関わらず、手榴弾で遊んでいたファリナッチは、投げる前に手榴弾を爆発させてしまい右腕を失う。これを、戦闘中での負傷だと申告し、勲章を貰い、戦傷手当を受給してしまう。しかし、これが後にムッソリーニにバレてしまい、勲章を剥奪、受け取っていた戦傷手当は全額慈善団体への寄付を命じられるという、イタリア人らしい恥ずかしいエピソードが残っている。
 
 1938年ムッソリーニの命令により、クレモナに国際バイオリン製作学校が開設されるが、実際に開設に携わったのがファリナッチである。開設2年後に、ファリナッチがその成果をムッソリーニに報告し、喜んだムッソリーニがさらに4万リラの資金を提供した事を書いた新聞記事が残っている。

 第二次世界大戦が始まると、軍部の要職も兼ねるようになる。
1943年ムッソリーニがイタリア社会主義共和国の建国を宣言する直前、ナチス・ドイツ党は裏工作としてファリナッチを買収し、当時、詩人で極右思想家のダヌンツィオが、湖の街(バイオリン製作ブレーシャ派の街)サロをナチズム国として独立させていたが、そのサロ国の元首にファリナッチをすえ、ナチスドイツ党の傀儡政権を樹立するという計画を企てるが、途中で計画は中止され、ファリナッチは失脚してしまう。

失意の中クレモナに戻ったファリナッチは、今度はムッソリーニを批判しながら、ナチスドイツ党のプロパガンダ活動に専念し、その節操の無さを露呈している。

イタリア解放を喜ぶクレモナ市民
 

 1945年イタリアが解放を迎えると、ファリナッチも多分にもれず、戦争責任として処刑されることになった。処刑が決まると、彼は全財産を浮浪者のための慈善団体へ寄付している。

しかし処刑に際しては、いかにも彼らしいエピソードが残っている。
銃殺の際、目隠しを外し前を向いて胸を撃たれて処されることを望んだのだ。彼の美学に基づいた死を迎えたかったのであろう。 しかし、その要求は却下され後ろを向かされる。

一発目の銃弾が放たれる瞬間、彼は突然前を振り返り、それに驚いた兵士が銃を上に向け外れてしまう。 もう一度、壁に向き直されたファリナッチであったが、銃弾が放たれた瞬間に再び振り返り、彼の望みどおり、胸に弾を受け、死んでいった。
なんとも、壮絶な最期である。

 どこまでも、自分の思いに忠実で、そしてそれを実現するためなら、汚い事も、周りの人や国の被害すらも顧みない。イデオロギーの塊でありながら変節も激しい。正にファシズムと共に生きた男である。

 ここまで激しい男が、クレモナに生きていた。
しかしクレモナは今、忘れようとしている。命日に墓参りに訪れる人を批判的に、しかし小さく記事にする。 クレモナの旧市街地にある行政機関の建物やシンボリックな建物は全てファシズム建築だ。もちろんファリナッチの影響下で建てられたものだ。それも日常の中に埋もれている。
クレモナ出身者の幾人かにファシズムについて尋ねた時も、ファリナッチの名前を覚えている人は殆ど居なかった。歴史のダイナミズムの中に埋もれようとしているのだ。

  しかし、彼の建てたこの別荘は、クレモナの郊外のうらぶれた片隅で、人目につくことはなく、しかしそこにしっかりと存在していた。まるで痛みの消えた古傷のように。
今は綺麗にメンテナンスもされている。

古傷を時折さすり、去来する思いに浸る人がいるのだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーー

西村翔太郎

1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。
2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。
2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。
CultralViolinMakingCremona会員
関西弦楽器製作者協会会員

主な楽器使用者

アレクサンダー・スプテル氏
(ソリスト・元SSOコンサートマスター)
森下幸次 氏 
(ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)
木村正貴 氏 
(東京交響楽団フォアシュピーラー)
立木茂 氏  
(ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)