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 この業界には都市伝説というものがとても多く存在しています。それは200年にもわたり楽器商の人達が、名工たちを神秘的に語り、付加価値を上げてきた「神秘主義マーケティング」が行われてきたからです。歴史研究がとても進んでいる現代においても、未だに一般の解説文などには事実かの様に都市伝説が語られており、関連書籍などを読んでいらっしゃる楽器には詳しいと胸を張るお客様との会話ほど、訂正せざるを得ない事が多々あります。  私は近年、お受けする注文の大半をガルネリ・デル・ジェスのモデルが占めているのですが、よく名前の由来の話になります。それはガルネリ・デル・ジェスが本名ではないからなのですが、この名前の由来についての話になると、必ずと言ってよい程、有名な都市伝説が出てきます。それはこのようなものです。「ガルネリ・デル・ジェスは本名ではなく、デル・ジェスは直訳すると『神の』という意味だが、彼が一時期犯罪を犯して刑務所に入っており、当時のクレモナの隠語で牢屋の罪人をデルジェスと呼んでいた事に由来する」この説明が未だに様々な本や雑誌に書かれ、とある海外オーケストラのホームページには、はっきりと殺人を犯したとの記述まであります。最近、日本の楽器店さんがメディアに語っているのも目にしましたし、ジブリの映画「耳をすませば」でもそれをイメージしたであろうシーン(実はこのシーンだけ宮崎駿の次男が描いています!)が出てくるほどです。もはや、定説となってしまっているのかもしれません。  現在のクレモナでは、教会や国会図書館に残る資料を徹底的に精査しており、ガルネリ・デル・ジェスの半生は有る程度わかっていますが、刑務所にいた事実は一切ありません。また、クレモナの古い隠語でデル・ジェスと言う言葉も存在しません。 この様な都市伝説が出てきたのは恐らく、1720年代後半の数年間、実家から出て少し楽器製作から離れていた空白期間がある為、また、ガルネリ・デル・ジェスの楽器が狂気ともいえる造形であり、破天荒な人柄というイメージがしっくりくる為に、その様な都市伝説が出来たのだと思います。 実際には、当時スペイン継承戦争と疫病の傷が未だ癒えぬままに、ポーランド継承戦争へと突入しつつあったこの期間に、不動産投資をしたり、司祭の財産管理人になったり、父親の借金の借り換えに奔走するなど、当時の大不況を生き延びようとする精力的な青年だったのですが。詳しくはまた別の機会に。  では何故、ガルネリ・デル・ジェスと呼ばれるようになったのでしょうか。歴史上、最初にガルネリ・デル・ジェスの表記が出てくるのは、1700年代後半の史上初めてのバイオリンコレクターであるコッツィオ伯爵の手記の中です。本名はBartolomeo Giuseppe Guarneri バルトロメオ・ジュゼッペ・ガルネリと言い、バイオリン製作一族ガルネリ家の三代目にあたります。  この一族は三代に渡りとても子沢山だったのですが、名前のバリエーションが少なく、似たような名前や同じ名前の人が何人もい居て、ニ代目であり、ガルネリ・デル・ジェスの父親の名前もジュゼッペ・ガルネリです。 この同じジュゼッペがとてもややこしく、1800年代初頭まで、どちらもジュゼッペ・ガルネリと呼び混同されてしまう事が頻発していました。 それを避ける為に、三代目を上記の様に1700年代後半から一部で使用されていたあだ名の「Guarneri del Gesù ガルネリ・デル・ジェス」または「Giuseppe (del Gesù)Guarneri 」の様に統一して表記する事が一般的になっていきました。 ではその由来は何だったのでしょうか。  それは彼のラベルにあります。彼の1730年辺りから使いだしたラベルには写真の様なシンボルがあしらわれています。これはイエズス会が使用している十字架のモチーフにIHS、救世主イエスのラテン語の頭文字があしらわれている事から、神のガルネリ、ガルネリ・デル・ジェスと呼ばれるようになりました。  この由来となったシンボルはイエズス会の十字架にIHSの文字と同じ事から、ガルネリ・デル・ジェスはイエズス会の信徒であったとも言われてきましたが、イエズス会の紋章に必ず入っていなければならない放射状に並ぶ三本の釘が無い事、そして、完全に工房を独立した時から使用し始め、祖父や父親のラベルには工房の地区を示す教会の名前を入れていた事から、住んでいた教区のサン・プロスペロ教会が掲げていたサン・ベルナルド修道会のシンボルではないかとも考えられています。  クレモナの大聖堂の裏通りにあったサン・プロスペロ教会は、現在は既になくなっており、跡地の一部はCaffe TUBINOという地元に愛されているバールになっています。お店の中には、教会の一部であった石の柱が残っています。クレモナを訪れる際には、ここで一息つきながら歴史に思いを馳せるのも良いかと思います。 長くなりましたが、都市伝説を否定するには事実関係を丹念に並べる必要がある為に、放置されてしまっているという側面もあります。少しでもこのように発信をし、過去の名工たちの正しい歴史的評価が進むことを願っております。

 様々な事が起きた2022年も明け、今年こそは平穏が訪れる事を心から願っております。個人的には、昨年は新たな事にも沢山挑戦した一年でした。クレモナ市の至宝であるストラディバリのバイオリン1715年「クレモネーゼ」のコピーに始まり、そしてこの数年構想していた新たなチェロのモデルの設計にも着手しました。 これは、この20年ほどのチェロのトレンドである横に幅広いモデルのチェロが持つ不利な点を克服することを志向するものでした。音が広がっていく性格でありながらしっかりと芯があり、尚且つD線の音量が歪みにくいバランスの良さを。そしてA線C線のボウイングで、フチやコーナーにあたる不安が無いように設計する為に、最終的にフランチェスコ・ルジェーリと初期のストラディバリのモデルを混ぜて修正するという結論に達しました。目論見が功を奏し、著名なソリストであり、京都市交響楽団の特別ソロ主席を務められている、山本裕康氏にお納めする事が出来ました。大変光栄に感じております。今年も「プロの即戦力になる新作楽器」をこれからも追及していく所存です。チェロの写真はこちら 山本裕康氏 1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。現在、京都市交響楽団特別首席奏者、サイトウキネンオーケストラに毎年参加。また東京音楽大学専任講師、東京藝術大学非常勤講師、スズキ・メソッド特別講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。(プロフィールより)

 すっかりイタリアも秋めいてきました。芸術の秋や食欲の秋とよく言いますが、それは開放的な夏から少しずつ寒くなるにつれて、感覚が内面へと向かい、繊細になっていくからでしょうか。同じ感性を刺激する芸術と美食は相性が良く、美食で知られた芸術家は数多くいます。音楽家では、美食家で知られた作曲家のロッシーニは、パリで食通が集まるサロンを開き、彼のお気に入りであったフォアグラをのせたステーキのレシピには「ロッシーニ風」と彼の名前が冠されています。 バイオリン史上初めての国際的な大スターとなったパガニーニもその御多分に漏れず、食にまつわるエピソードが多く残っています。当時の大スターであったパガニーニは、1828年にコンサートで訪れたウィーンでは「パガニーニブーム」が起き、その名を冠したコース料理がレストランに登場し、パガニーニスタイルと呼ばれた髪型やパガニーニと同じ格好をした女性を連れて、食事やカフェをする事が流行る程でした。その時に生まれた菓子パンは今でも「パガニーニ」と呼ばれて親しまれています。 そんな食欲まで刺激する大スターのパガニーニは、以前の記事でもふれたように手紙マニアでも知られ、膨大な数の手紙が残っていますが、その中には食について言及している手紙が幾つか残っています。1816年パガニーニが34歳の時に母親に宛てた手紙では、愛情たっぷりに、家族が変わらず母親のおいしい手料理で満たされた食卓を囲っている事を願う手紙を書いています。また、1820年にナポリからジェノバにいる友人に書かれた手紙には、母親が作る「冷めると刺したスプーンが倒れないほど濃厚なミネストローネ」を語り、亡くなる前年1839年のマルセイユで書かれた手紙には「半生のステーキと頭痛が消える上等なポルトワイン」を欲していると書いています。コンサートでヨーロッパ中を飛び回る生活をおくったパガニーニにとって、食事は故郷や母や友人を思いだし、また疲れや病の苦痛を和らげてくれる楽しみであったようです。 そんな中でも、彼の食へのこだわりが一番詰まった手紙が、アメリカ国会図書館に保管されている、1836年に友人のルイージ・ジェルミに宛てた手紙です。そこには、彼の故郷ジェノヴァの郷土料理「raieü cou tuccuジェノバ風ミートソースのラヴィオリ」のレシピを、情感たっぷりに書き残しています。 それはこんなレシピです。 パガニーニのレシピが書かれた手紙  “”ソースを作るためには、小麦粉1ポンド半に対して、良質な赤身の牛肉2ポンドが必要である。フライパンにバターを入れ、次に細かく刻んだ玉ねぎを少量入れて、少し焼く。そこに牛肉を入れ、少し色がつくまで焼く。濃厚なソースを作るには、小麦粉を数つまみに分けて取り、肉汁に少しずつ振り入れて焼き色をつける。ホールトマトを数個取り水でほぐし、フライパンの小麦粉に少しづつ注いでよく混ぜ、溶かす。最後に細かく刻んで叩いた乾燥キノコを加えて煮込めば、ミートソースの出来上がり。さて、次はパスタ。パスタは卵抜きの生地で仕上げる。その時にパスタに塩を少し入れると、粘りが出る。さて、中に詰める具材。肉と同じフライパンを使って、先ほどのソースで赤身の仔牛(1/2ポンド)を焼き、取り出して刻み潰す。「仔牛の脳みそ」は水に浸して加熱し、脳みそを覆っている皮を取り除き、刻んでよく叩き、別に用意した太めのサルシッチャ(イタリアンソーセージ)も皮を取り除き、刻んでよく叩く。ニースではボラージュと呼ばれる香草を適量取り、茹でて、よく絞り、上記と同様に潰す。 卵を3つ、小麦粉1.5ポンドに対して十分な量を取る。よく溶いて、上記で準備した材料を加え、卵にパルメザンチーズを少々加えながら、もう一度潰すしながらよく練る。これが中に詰める具材である。「仔牛の脳みそ」の代わりに雄鶏を使うと繊細な味に仕上がる。 ラビオリは、パスタを少し濡らして切り、蓋をして1時間置くと薄いシート状にすることが出来る。“”  如何でしょうか。 詳細に書かれており、パガニーニのこだわり様が伝わってきますね。ジェノヴァ風ミートソースの特徴は、挽肉ではなく、固まり肉から作るのが特徴です。 そして何より、「仔牛の脳みそ」がかなりのインパクトです。意外に思われるかもしれませんが、イタリアでは脳みそは一般に使われる食材で、スーパーでも売っています。特に北イタリアでは、医学用語では脳みそを男性名詞でCERVELLOと表記しますが、食用は女性名詞のCERVELLAと表記し、食材である事を強調する程です。raieü cou tuccuはジェノバの郷土料理ですが、今ではこのレシピは「Ravioli di Paganiniパガニーニのラヴィオリ」としても知られています。勿論、脳みそ無しで作る事が殆どです。 このレシピ、試してみませんか? 以前のパガニーニの記事はこちらです。

 ストラディバリは数々の名器を残しましたが、その中でもクレモナの街の名前を冠する特別な楽器が有ります。それはストラディバリ1715年Cremonese(クレモネーゼ)です。この楽器は、クレモナのバイオリン博物館で特に大切に保管され、宝物の間の一番奥に鎮座しております。この度、幸運な事に博物館のキュレーターの協力の元、実物を直接計測し、比べながらコピーする機会を得ました。そして、その楽器は日本を代表するバイオリニストである豊嶋泰嗣氏の元へと渡りました。豊嶋氏は早速コンサートで使用して頂いており、5月に来日した世界的なピアニストであるマルタ・アルゲリッチ氏とのコンサートでは、コンサート終了後にアルゲリッチ氏が豊嶋氏へ、何の楽器を使っているのかと尋ねて来たそうで、新作の楽器だと知って大変驚いたとのご報告を頂きました。数々の名バイオリニスト&名器との共演を重ねてきたアルゲリッチ氏の、新作楽器へのイメージを覆せた様で、音響研究を続け、音にひたすらこだわり製作を続けてきた事が、報われた思いでした。 新作と聞いて驚くアルゲリッチ氏  また、7月に行われた音楽家・久石譲氏のコンサートでも、久石譲氏が絶大な信頼を置いている豊嶋氏の演奏の元、子供の頃から聴いていたジブリの音楽を自分の楽器で聴くことが出来、とても感慨深いものが有りました。「バイオリン製作家になりたい」と言い出した中学生時代から、兎に角「"耳をすませば"だね」と言われ続けてきました。まさかそのジブリの音楽を、久石譲さん御本人のコンサートにて、自分の楽器で聴く日が来るとは思いもしませんでした。豊嶋氏によるソロパートで音がホールに響き渡った時には、少し目頭が熱くなりました。 https://youtu.be/eMZQN-eGtp4 久石譲氏の公式チャンネルより 三浦一馬氏のInstagramより豊嶋氏の手に私が製作したクレモネーゼが https://twitter.com/joehisaishi2019/status/1550808692186292224?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1550808692186292224%7Ctwgr%5E4f940e296ca2efbb76a826d8b46bfcb2cdffe3bc%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fshotaro-violin.info%2Fwp-admin%2Fpost.php%3Fpost%3D5598action%3Dedit  常に「プロの即戦力になる楽器」を目指して、音響研究を重ねてまいりました。日本を代表するバイオリニストである豊嶋氏が、お渡しした直後から重要なコンサートで使い続けて頂いてる事は、一つの到達点であると感じております。これを糧に、更なる高みを目指していこうと決意を強くした次第です。 この楽器の写真はギャラリーページに掲載しております。

  5月1日大阪にて、関西弦楽器製作家協会の展示会が行われました。展示会の企画展示のコーナーでは、ストラディバリ1715年「クレモネーゼ」をモデルにしたバイオリンが一堂に会しました。そして昨年同様、そこで配布された解説パンフレットの執筆をさせて頂きました。誌面の関係のためカットした部分を含め、完全版としてこちらに掲載いたします。まだ論文にもなっていない、バイオリン博物館での最新の解析結果も含んでおりますので、こちらが日本語では一番包括的な解説になっているかと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Il Cremonese  その男は待ちわびていた。1715 年クレモナ、ポーランド王室の楽団を率いてクレモナでのコンサートを大成功に導いたバイオリニスト、ジャン・バティスト・ヴォリュミエ(1667-1728)は、新たな任務を担いクレモナに数ヵ月滞在する事になっていた。それは、ポーランド王室が注文したストラディバリのバイオリン12 台の完成を見届け、王室へ無事に持ち帰る事であった。  当時のクレモナは、スペイン継承戦争が終わりを迎えたのも束の間、疫病が発生し、街中に病院が急造される程に荒廃しており、ようやく持ち直し始めていた経済もまた、傾いてしまっていた。この影響は少なからずバイオリン製作家達にも及んでおり、1715 年、クレモナのバイオリン製作の元祖であるアマティ家の4 代目ジロラモⅡ・アマティは、借金の返済に事欠き夜逃げをしている。また、ガルネリ家2 代目ジュゼッペ・ガルネリが、後に息子であるガルネリ・デルジェスを生涯苦しめていく事になる多額の借金をしている。ルジェーリ家三男ヴィンチェンツォ・ルジェーリはこの年を振り返り、苦難の日々であったと手紙に残している程であった。 そんな中、既に71 歳を迎えていたストラディバリだけが、ヨーロッパ中の顧客から絶え間なく舞い込む注文に忙しくしていた。1900年代初頭のヒル商会の資料によると、確認した楽器の本数だけでストラディバリは年間21 本は製作していた事になり、失われたであろう楽器も含めるとその数はさらに増え、ストラディバリはまさに黄金期を迎えていたのである。 それでも、ポーランド王室からの12 本のバイオリンの注文というのは、半年は掛かる大きな仕事であった。  現存する1715 年製のストラディバリのバイオリンは、どれも名器と讃えられる楽器ばかりであるが、その中でも最も有名なバイオリンが、クレモナの名前のを冠する”Il Cremonese クレモネーゼ”である。そして、その圧倒的な存在感の裏板や作りの丁寧さから、ポーランド王室のために製作された12 台の内の1 台ではないかと考えられているのである。ようやく完成した12 台のストラディバリのバイオリンをポーランド王室へと持ち帰ったヴォリュミエは、大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハと親交が深く、1717 年にはバッハをワイマールのオルガン奏者に招いている。このストラディバリの12 台のバイオリンをバッハも見ていた可能性もある。 伝説のバイオリン奏者ヨアヒム ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)  クレモネーゼが次に歴史上に登場するのは1800 年代後半のパリである。 Gand&Bernardel 商会が扱った122 本のストラディバリの中にあり、数人のバイオリニストやコレクターの手に渡った後、1889 年ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の手に渡る。 ヨーゼフ・ヨハヒムは1800 年代を代表するバイオリニスト・作曲家であり、ブラームスのバイオリン協奏曲は彼の為に書かれたものである。それほどのバイオリンの名手が生涯にわたって愛用したのがこのクレモネーゼなのである。 ヨハヒムは他に数台のストラディバリを所有していたが、彼が最初に手にしたストラディヴァリは1714 年製で現在は”Joahim-Ma”と言う名で知られる楽器で、クレモネーゼと同じモデルで作られている。また、もう1 台はクレモネーゼと同じ1715 年に作られ、裏板はクレモネーゼと同じ樹から作られ、モデルや細部の作りまで酷似している双子の様な楽器であり、現在は”Joahim‐Aranyi”の名で日本財団が所有している。ヨハヒムはこの時代のストラディヴァリの音や弾き心地を追求し、58 歳にして遂にクレモネーゼに出会い、そしてこの楽器だけは、死を前にし、甥でありバイオリニストであったハロルド・ヨハヒムへと、託しているのである。 クレモネーゼの造形 赤:PGモデル 緑:Gモデル  クレモネーゼはなんといってもその力強く荘厳な佇まいで人々を惹きつけているが、そのボディーラインはG 型と呼ばれるモデルから製作されている。現在、ストラディヴァリが実際に使用していた型が12 台残されているが、その中で最も大きく、Grande(大きな)を意味するG と書かれている型で1708 年と刻まれており、これはストラディバリが設計した最後の型であり集大成ともいえる型である。近年の博物館による3D データによるクレモネーゼの横板との検証においても、左右非対称な箇所までこのG 型と良く一致する。基本的なラインは、他のモデルや、アマティ家が使用していたグランドパターンと呼ばれるデザインと似ているが、下部が長く膨らんでおり、それが大きく重厚感のある印象を作り出してる。 また、博物館にはG 型用のF 字孔の位置を示すデザインが残されているが、クレモネーゼは他に比べて左右のF 字孔の距離が離れて配置されており、残されているデザインとは一致しない。F 字孔の形は同じ年代の楽器に比べて太く力強く、直線的である。  また、パフリングも同じ年代の楽器に比べて0.1mm太く、0・3 ㎜ほど内側に入れられている。コーナー部でパフリグが合わさる箇所では、ナイフで入れた隙間を黒い樹脂で埋められており、個性的な流線型を描いている。この技法はアドレア・アマティが既に用いていたが、クレモネーゼはより大胆である。 表板の木は年輪年代学の解析によると、1690 年代に伐採された樹で作られている。裏板はクレモネーゼを何より特別なものにしていて、一枚板で杢がとても深く太く入っており、イタリア語で杢を「Marezzatura 海の様な」と表現するが、まさに 押し寄せる波を俯瞰したかのような迫力である。この時期のストラディバリは重厚感のある意匠が特徴であるが、この型やパフリングなどの造詣、裏板の杢などがクレモネーゼにより一層、力強く荘厳な印象を与えているのである。  ニスは各所にオリジナルのニスが残っており、バイオリン博物館で行われたIR・XRF 解析では、表面全体からは安息香をベースとしたアルコールニスの保護膜が検出され、その下層からは樹脂化したオイル成分とオイルニスの乾燥促進剤である鉛の成分が多く検出される。その他、顔料に含まれる鉄分、木質に近い層では目止めに使われる石灰や珪藻土に含まれるカルシウム、カリウム、硫酸塩、鉱物由来のケイ酸塩が検出されている。また、表板の木質のすぐ上の層からはカゼインが、裏板と楽器内部からは膠が検出されている。この解析結果はバイオリン博物館で解析された他の20 台以上のストラディバリと一致する。クレモネーゼの音 何度もクレモネーゼを使ってコンサートを行ってきたバイオリニスト、サルバトーレ・アッカルドは「その反応の良さに驚くと共に、ストラディヴァリらしい高音域の魅力が有る」と評している。また、クレモネーゼが初めてクレモナに持ち込まれ、購入を決める際に行われた審査では、その音を「力強く広がりのある音」「輝きが有りふくよか」「4 弦ともバランスが良い」と記録されている。それを裏付けるように、バイオリン博物館で行われた三次元方向での音の指向性の計測では、全ての弦において、全方向に満遍なく、かつ高いデシベルで音が広がっている事が確認された。また、数十人のバイオリン製作家と音楽家による音評価を元に開発されたアルゴリズムを用いた解析において、明るい音色を示す周波数帯が他の楽器よりも吐出しており、指向性においても明るい音色を示す周波数帯が前方向に強く発せられている。また、本体の重さは369g と驚くほど軽く、反応の良さが伺える。この事は、冒頭のサルバトーレ・アッカルドの証言を裏付けている。 前述したように、楽器の内部からも膠が検出されたが、その分子構造の経年劣化が楽器表面から検出されたものとほぼ同じ程度であり、少なくとも百年単位で楽器の厚みを変えられていない事が推測される。この事から、この楽器を愛用していたヨアヒムは今と変わらない音でブラームスの協奏曲を演奏し、もしかすると、この楽器を最初に受けとったヴォリュミエもこの音色を楽しみ、また、それにバッハも聴き入っていたのかもしれない。 クレモネーゼの名を冠する クレモナ・バイオリン博物館の宝物の間  1962年2月5日、クレモナ市民は待ちわびていた。 それまでクレモナの観光の目玉として、様々な国際イベントを開催してきたストラディヴァリ博物館であったが、道具や資料が展示されているのみで、肝心のストラディヴァリの楽器が1台もないままであった。1959年「クレモナにもストラディヴァリを!」との機運が高まり、文化庁から資金が下りる運びとなった。しかし、バイオリンの聖地であるクレモナに相応しいストラディヴァリを見つけるのは、予想以上に困難を極めたのである。 当初、アメリカで修復家として活躍していたシモーネ・サッコーニが選任されたが、めぼしい成果が無く、次にミラノ派の製作家でクレモナ・バイオリン製作学校の教鞭もとり、現代クレモナ派の復興に尽力したフェルディナンド・ガリンベルティが選任された。ガリンベルティはヨーロッパやアメリカ各地から売りに出ているストラディヴァリの情報をかき集め、最終的に2年間で11本のストラディヴァリが候補に挙がったが、どれも彼を満足させるものではなかった。 クレモナにストラディバリがやってくるかもと報じる当時の新聞  1961 年ニューヨークの著名な楽器商Herrmann が、名器と名高い1710 年Wilmotte の販売を持ち掛けた。名器と言われる楽器ならばと、遥かに予算を超えていたものの、文化庁を説得し購入の話を進め、地元紙にも大きく取り上げられた。しかし、いざガリンベルティが楽器を受け取りにニューヨークを訪れ、その楽器を見た直後に、クレモナ市へ電報で「STOP」と、振り込みを直ちに中止するように伝えている。名器と名高い1710 年Wilmotte ですら、クレモナに相応しいとは言えなかったのである。 諦めかけていた1961 年12 月12 日、ヒル商会から電報で「2 台の素晴らしいストラディヴァリある」との連絡が入った。12 月末までにクレモナに来れないかとの返事に、ヒルは3 日後の12 月15日にはクレモナに2 台の楽器を携えて訪れていた。即座に楽器の評価と試奏会が開かれ、同日、正式にこの1715 年製をクレモナ市が購入する事を決定した。3 日間の関税と支払い手続きを経た同年12 月18 日、クレモナ市が正式にこの楽器の所有者となった。それは奇しくも、224 年目のストラディヴァリの命日であった。 バイオリンの聖地クレモナにストラディヴァリをと動き出してから3 年、1962 年2 月5 日正式にバイオリンが引き渡された。ポンキエッリ劇場でセレモニーと演奏会が開かれ、待ちわびていたクレモナ市民からの歓喜と共に迎えられた。そして、この1715 年製のストラディヴァリは”Il Cremonese クレモネーゼ”という、バイオリンの聖地であるクレモナの名を冠する事となった。 その後、60 年たった今でもクレモネーゼは世界中の人を魅了し、バイオリン製作家の指針であり続けている。そして、バイオリン博物館の宝物の間の一番奥に鎮座し、バイオリンの聖地クレモナを代表するバイオリンとして、その存在感を放ち続けている。 バイオリン製作家 西村翔太郎ーーーーーーーーーーーーーーーー  この度、この展示会に合わせて製作したクレモネーゼのコピーのその後については、こちらに書いております。併せて読んで頂けると幸いです。西村翔太郎 Profileはこちら

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Tue ‒ Thu: 09am ‒ 07pm
Fri ‒ Mon: 09am ‒ 05pm

Adults: $25
Children & Students free

673 12 Constitution Lane Massillon
781-562-9355, 781-727-6090