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  すべてのクレモナのバイオリン製作家の祖先である、アンドレア・アマティ。
彼がクレモナで初めてのバイオリン製作家であるかについては前回の記事で言及した。
前回の記事はこちら
アンドレア・アマティの名前が歴史上初めて登場する資料の下りで、マルティネンゴという人物の下働きとして登場する理由について、論考とはそれてしまうために省略していたが、今回はその事について触れたいと思う。

 

 

アンドレア・アマティの名前が歴史上初めて登場するのは、1526年にFragumentorumと呼ばれる「武器所持者リスト」の中に登場する。
当時、常に他国からの侵略に晒されていたクレモナの街の防衛のため、商人や職人など街中に住む庶民のうち15~50歳の男性が銃器を所持し、緊急事態には防衛の最前線に立つことが義務付けられていたのだが、Fragumentorumはその登録者リストである。

 

 

Paterの表記と、
歴史上最初のAndrea Amatiの表記

 

 まずこのリストが1937年に歴史学者の3人によって発見されたおかげで判明したことは、アンドレア・アマティの出生年が、それまで言われてきたよりもずっと以前であるという事である。1526年にFragumentorumのリストに掲載されていたということは、この時代に少なくともアンドレア・アマティは15歳以上であり、1505年より前に生まれたことになる。そして、1556年にはリストから名前が外れていることから、このときには既に50歳を過ぎていたことが解る。

 

そして、このリストで最も注目されるのが、Giovanni Leonardo de Martinego (以下マルティネンゴ)という人物の下働きとしてアンドレア・アマティの名前が出てくる事である。まずはこの、マルティネンゴとは何者なのかについて、諸説を検証しつつ見ていこう。
リストのマルティネンゴの名前の横に「Pater」という表記があるが、「Pater」をどう解釈するかで歴史学者の間で意見が別れている。
この表記はクレモナの古語のため理解が難しいのだが、まず「パーテル」と発音するのと「パテール」と発音するのかで意見が別れている。「パーテル」と発音すると、父親や雇い主という意味になり、アンドレア・アマティが下働きとして書かれているので、それなりに辻褄は合うが、書かれいている箇所が他の人では職業名が書かれている箇所なので、そこに「雇い主」と書くのは不自然に思える。
ではこれを「パテール」と発音するとどうか。こちらでも意見が別れていて、イタリア語古語の「pattero」布織物商人ではないかとする意見と、クレモナの古語で「金融・質屋」の事だとする意見とがある。

どちらかを知るためには、マルティネンゴの来歴を知る必要がある。
マルティネンゴの父親はMoise’ de Salomone de Martinengoと下を噛みそうなぐらい長い名前の持ち主のヴェネツィア出身の銀行家で、当時ベネツィアの支配下にあったベルガモ県マルティネンゴ市から、1499年にベネツィアの支配下に入ったクレモナに移り住んだ3人の銀行家の内の一人であるという説が有力だ。当時、不当な高利貸しが横行していたクレモナで金利の調整をすることで、ベネツィアへの税金や軍事費の支払いを円滑にする事がその務めであったようだ。1509年にクレモナがベネツィア支配下から外れると、父マルティネンゴはベネツィアに戻っているのだが、マルティネンゴはそのままクレモナに残っている。この来歴を考えると、布織物商人というよりも金融業を営んでいたという方が自然である。

ここで重要なことは、布織物商人であれ金融業であれ、どちらもユダヤ人の仕事であったことである。そう、マルティネンゴはユダヤ人であった。そして、キリスト教に改宗したユダヤ人であったようである。後年、キリスト教教会に大量の寄付をしたことが記録に残っている。名前がGiovanni Leonardoと、全くユダヤ人的ではない名前を考えると、父親が既にキリスト教に改宗していた可能性もあるし、ペストなど疫病が流行るたびにユダヤ人のせいにし排斥が強まるなど、当時の世間の風潮から息子を遠ざける目的だったのかもしれない。

*この時代のクレモナでのユダヤ人の営みについては、イタリア・ユダヤ人協会のクレモナ支部のサイトに細かく記されているので、興味がある方は是非。
http://www7.tau.ac.il/omeka/italjuda/items/show/865

さて、マルティネンゴの人物像を見たところで、一つの疑問が湧いてくる。
何故、アンドレア・アマティはユダヤ人商人の元で楽器を製作していたのであろうか。
クレモナやヴェネツィア、ブレーシャなど、ユダヤ人が集中している所にバイオリン職人も集中していた事から、ユダヤ人の間で楽器製作が行われていたため、マルティネンゴも楽器製作の技術を持っていたという説を唱えた学者もいるが、真実は定かではない。しかしもし、ユダヤ人がもともと製作の技術を持っていたのなら、プロの製作家になっていてもおかしくないが、この時代の他の楽器製作者のリストを見ても、歴史上ユダヤ人の名前を持った製作家がいないことを考えると、この説は少し疑わしい。
少なくと、マルティネンゴもプロの製作家ではなかったことは先述した通りである。
しかしこの当時、バイオリン製作家の主な顧客がユダヤ人であったことは事実である。

どういう事か。次はイタリアにおけるユダヤ人について見ていこう。
この当時のイタリアは他のヨーロッパ諸国と同じく、ユダヤ人への弾圧を強めいていた。一般的にユダヤ人隔離地区を「ゲットー」と呼ぶが、これはベネツィアで1516年に初めて厳格にユダヤ人を隔離した地区が作られ、それが旧製鉄所跡地であり、ベネチア弁で製鉄所をゲットーと呼んだ事がユダヤ人居住区「ゲットー」の語源とされている。ベネツィアは数々の歴史的発明をしているが、負の歴史も生んでいた。
話はそれたが、このようにイタリアでもユダヤ人は弾圧されていた。

しかし、そのような社会状況の中でも、クレモナはユダヤ人に対してとても寛容な街で、特に1441年のヴィスコンティ家とスフォルツァ家の結婚の後、貴族たちに帯同していた金融業(主に軍資金調達)を生業とするユダヤ人がそのまま住み着き、ユダヤ人人口が増えていった。
クレモナのこの当時のユダヤ人への寛容さを象徴するものが、大聖堂の中にある。
大聖堂の身廊をぐるりと囲むフレスコ画の中に、ヘブライ文字で描かれている部分があるのだ。これは大変に珍しく、クレモナのユダヤ人についての文献では必ず言及されている。さらにユダヤ人の大聖堂への立ち入りはミサ中であっても自由であったようだ。

*キリスト殺しの犯人だと迫害をしていたユダヤ人の文字を大聖堂の聖書の場面を描くフレスコ画に挿入するという事は、博愛主義というよりも、キリストの人生はヘブライ文化の中を通ってきたという事実を正面から受け止める、宗教的寛容性や客観性からのように感じられて面白い。

大聖堂のフレスコ画。奥の石版にヘブライ語が描かれている
 

いくらイタリアの地方によって寛容さに差異があっても、イタリア全土においてユダヤ人が就ける職業だけは厳しく制限されていた。
金利を取ることを良しとされていなかったキリスト教世界において、金融業はユダヤ人の主な生業であったが、それ以外に就ける職業では、行商や製造業に限らていた。しかし文化的な活動は許されていた。その中でも特筆すべき職業が音楽家であった。

イタリアで最初期のオーケストラが組織されたのはベネツィアだが、その中でもユダヤ人音楽家で編成されたものがとても人気を博していて、イギリス宮廷やフランス宮廷などにも呼ばれて演奏していた。
イタリア音楽の発展に大きく寄与した、マントヴァのゴンザーガ家もユダヤ人音楽家を手厚く保護しており、国外の演奏旅行も支援した他、キリスト教会での演奏も許可していた。その中にユダヤ人バイオリニストのSolomone Rossiがいる。
このように当時はイタリアの楽団がヨーロッパ中でもてはやされていたが、その中に沢山のユダヤ人がいた。ユダヤ人音楽家がイタリア音楽の普及、ひいては生まれたばかりの楽器バイオリンをヨーロッパ中へと広めるのに大きな役割を担っていた。

ユダヤ人バイオリニストSolomone Rossi

 さて、話をアンドレア・アマティに戻すと、この様な時代背景から何故マルティネンゴの元で働いていたのかについて一つの推測が導き出されるのである。
まだ駆け出しのバイオリン職人だったアンドレア・アマティは、最大の顧客であるユダヤ人とのコネクションが必要だった為に、マルティネンゴの元で働いていたのでないかという事である。
アマティ自身がユダヤ人だったのではないかという説を唱える人もいる。しかしこれはあまり信憑性が薄いと個人的には考えている。
何故なら、1500年代後半にクレモナがスペイン支配下に入ると、融和的であったクレモナでも反ユダヤ人の風潮が強まり、1597年にフェリペ2世により新しい反ユダヤ法が制定されると、ゲットーが積極的に作られ始め、ユダヤ人の人口は半分以下にまで下がる。更にユダヤ人の文化的な活動や職業を禁止し、政治の中枢にまでいたユダヤ人ですらもクレモナを追放されている。しかしそんな中、アマティ家は住居を制限されることもなければ、より精力的に活動しているのである。

 

クレモナの大聖堂のすぐ脇にある、旧ゲットー地区via Torriani

 

 このように、バイオリン製作の歴史にユダヤ人は深く関わっている。
日本人の私には到底理解し得ない、彼らが歩んできた歴史と独自の民族性が、ヨーロッパ音楽に豊潤をもたらした事を忘れてはならないと思う。

 
 

 

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西村翔太郎
1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。
2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。
2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。
CultralViolinMakingCremona会員
関西弦楽器製作者協会会員

主な楽器使用者

アレクサンダー・スプテル氏
(ソリスト・元SSOコンサートマスター)
森下幸次 氏 
(ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)
木村正貴 氏 
(東京交響楽団フォアシュピーラー)
立木茂 氏  
(ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)

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