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Shotaro Nishimura

Castell’arquato ~ストラディバリ家が残したもの~

Castell’arquato  カステルアルクワート

                                               写真提供:Nagano Taro氏

クレモナから南に30キロ。ピアチェンツァの丘にある、中世の町並みをそのまま残す風景明媚な街。
オペラが好きな方なら、プッチーニのお抱え脚本家Luigi Ilicaが住んだ街として
聞いたことのある方もいるかもしれません。
そしてバイオリン製作家ならば、ストラディバリのお城があり、町外れにぶどう畑も持っていた。
こういう”噂”を聞いたことがあるかもしれません。
先日この”噂”の真相について、全容を知る機会を得ることができました。


週末天気がいい日などは、他のクレモナ人に習って私も足を伸ばし、
お茶をして帰ってくることがよくあります。
先日も日本からいらっしゃった方と共に、カステルアルクワートを散策している折、
大聖堂の裏庭で、こんなものを見つけました。

 Cesare Stradivari
Da Cremona
”Delle scienze mediche celebrato cultore – apostolo di libertà con Mazzini 
patì carcere austriaco – soldato con Duce dei Mille a Palermo al Volturno a Bazzecca – 
nemico di ogni tirannide sacerdotale o regia 
moriva nell’Ottantaduesimo anno d’età 20 giugno 1880 
sognando una ben altra Italia”.
     
チェーザレ ストラディバリ
クレモナ出身
        医学の権威  マッツィーニの自由思想の使徒となる
オーストリアに収監される   千人隊としてパレルモからバゼッカまで従軍
全ての宗教的・政治的な専制に反対する
82歳 1880年6月20日没
素晴らしいイタリアを願い眠る



ここに書かれているマッツィーニとは「イタリア統一運動」の思想的支柱となった人物です。
そして千人隊とは、赤シャツ隊とも呼ばれ、エマニュエレ二世の加護により、
ジュゼッペ・ガリバリディーが率いた、「イタリア統一軍」のことです。




ストラディバリの名を持つ者が、イタリア統一に関わっている!?

クレモナに帰るやいなや、ストラディバリ家を一番よく知る人物にすぐに電話をしました。
ストラディバリ家8代目、ルカ・ストラディバリです。
(実は個人的にストラディバリ家の末裔と親しくしており、
カステルアルクワートのお城で夕食をおよばれしたこともありまして。)

彼の返答はとてもシンプルで明確でした。
 「あれ、散々街に来ておいて知らなかったの?」
 あなたが言わないからですよ、と言い返すよりも好奇心がまさり、
詳しいことをメールで書いてくれるよう頼みました。
そこから、ほとんど知られていない、近代のストラディバリ家の歩が見えてきました。


                ・~・~・~・~・~・~・~・~・~


偉大なバイオリン製作家アントニオ・ストラディバリは10人の子供をもうけました。
 その10男、パオロ・ストラディバリは繊維業で財をなし、兄弟で唯一家族を持ちます。
家族から受け継いだ 父アントニオ・ストラディバリのバイオリンや道具達を、
早々と売り払ったところを見ると、音楽とは無縁だったようで、
その後、子孫も音楽から離れていきます。

そしてアントニオ・ストラディバリから数えること4代目、チェーザレ・ストラディバリは、
イタリア統一論を唱えるマッツィーニに感化され、ガリバリディー率いる千人隊に従軍医師として、
クレモナから参加します。
その後、イタリア統一が果たされると、チェーザレ・ストラディバリはクレモナには帰らず、
バチェダスコ・アルトという地域に広大な土地を購入し、ぶどう畑を耕しながら余生を過ごします。
 しかし最期は森で行方不明となり、結局見つかることはありませんでした。
そして行方不明となった日付とともに、バチェダスコ・バッソの教会に石碑が作られます。

同じく4代目次男ピエトロ・ストラディバリは公証人でしたが、
1860年にロンバルディア州がサルデーニャ州の自治権の下に移ると、
クレモナは県として独立し、
ピエトロ・ストラディバリはクレモナ初の県知事となります。
クレーマをクレモナ県に合併する手続きを行ったことが記録に残っています。


その後チェーザレ・ストラディバリの息子、五代目リベロ・ストラディバリが、
カステルアルクワート にお城を完成させます。
(建設中、父チェーザレがカステルアルクワートに来ることはなかったようです。)
このお城は、中世の街並みが残るカステルアルクワートに馴染むよう、
”中世風”に作ってあり、「Castello di Stradivari ストラディバリの城」と名付けられます。
ストラディバリ城が絵葉書にもなるなど街のシンボルとして知れ渡った頃、
リベロ・ストラディバリの息子6代目マリオ・ストラディバリのもとに、市長が訪ねてきます。
そして彼らに提案をしました。
「この街に、初代・楽器製作家アントニオ・ストラディバリが別荘を持っていたことにしてくれないか」
と。どうやら観光資源にしたかったようなのです。
もちろんこの提案は断りましたが、1945年にはチェーザレ・ストラディバリのお墓を、
バチェダスコからカステルアルクワートの中心に移すことを承諾します。
そして元々お墓があったバチェダスコの街道には「CostaStradivari」の名前も付けられました。

                                          写真提供:Nagano Taro氏

今、噂で「アントニオ・ストラディバリの別荘があった街」と言われているのは、
これに起因するのです。70年の時を経て、この市長さんの企みが成功しつつあるようですね。


現在は7代目アントニア・ストラディバリと息子8代目ルカ・ナターリ・ストラディバリが、
別荘として使っています。
お城の中は、6代目マリオ・ストラディバリがハンティングで獲ってきた、巨大なイノシシや
鹿の頭の剥製が所狭しと掛かり、お城がレプリカだとは思えないほどの荘厳さを醸し出しています。

                 
                 ・~・~・~・~・~・~・~・~・

ほとんど知られていない、ストラディバリ家のその後。
華々しくはなくとも、しっかりとストラディバリの名を継ぐものとして、
歴史に、土地の記憶に、その名を刻んでいました。

8代目ルカは現在音大生。作曲の勉強中。
その名に恥じぬよう、頑張れ!


さて、そんな歴史の旅へといざなってくれたカステルアルクワート。
実はこれで終わりではないのです。
この街は、日本人との意外な関係がありました。

続きます。






*クレモナには「今のストラディバリ家がアントニオ・ストラディバリの末裔だというのは嘘だ」
 なんていう噂もあるようです。
  2005年に「ストラディバリ」の商標を巡って裁判があり、調査書類提出により、
 「正式なストラディバリ家の末裔であり、商標はこの一族に帰属する」
 との判決が出ています。
 おそらくこの裁判の過程で、偽物との噂が流布したのではと思われます。
 クレモナは小さな村社会ですので、こんな噂が出るのですね。






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