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 カステルアルクワートは丘を城壁で囲って造られた街です。1200年代にスコッティ家によって発展し、1400年代にヴィスコンティ家によって現在でも見られる、美しい中世の街並みが形成されます。 その後フランスの占領下に移り、ミラノを治めたスフォルツァ家によってピアチェンツァ領に戻ります。この小さな街が時の権力者に翻弄された証のように丘の頂上、大聖堂の横には、街の中心には似つかわしくない、厳めしい要塞が残っています。(写真左奥)  大聖堂は12世紀頃に建てられ、とても素朴なロマネスク様式です。もともとは修道院で、教会堂の横には小さな小さな修道院も残っています。教会堂の中に入ると、装飾や絵画はほとんど見当たらず、近年はただ純粋な祈りの場として機能してきたのだと感じます。  しかし、右奥に暗い部屋があり立て看板に、「創建初期の壁画」 とあり、お金を入れると照明がつく仕組みになっています。(イタリアの教会ではよくある、小銭稼ぎですね。)  興味を惹かれ小銭を入れてみると、そこに照らし出されたものは、それまでの素朴で静謐な空間からは想像できないほどの、色彩豊かな壁画でした。 まるで突然、宴がはじまったかのような鮮やかさ。  目を奪われたのは上部の楽器を弾いている天使です。左から2番目の天使が持っているのは、古楽器のリラ・ダ・ブラッチョと思われるものです。 一番右の天使が持っているのはレベックと呼ばれる、リラ・ダ・ブラッチョよりも更に古い楽器です。(形からすると、もっと古いアラブ起源でスペインで進化した楽器、レバブにも見えます) どちらもバイオリンの祖先と言われている楽器です。 こんな小さな田舎町でもこのような楽器がちゃんと使われていたのですね。中世キリスト教における音楽の重要性が見て取れると共に、 音楽文化は宗教とともにイタリア全土に浸透して行ったのがよく分かります。  そして祭壇の奥のクーポラの中にも楽器を見つけました。おそらく16世紀以降に描かれたと思われます。チェロとバイオリンが描かれています。カステルアルクワートの人々がとても音楽を大切にしていたのが見えてきます。争いに巻き込まれ続ける中、音楽が心の拠り所になっていたのかもしれません。   この大聖堂の裏庭に、前回記したチェーザレ・ストラディバリのお墓がありました。思わぬ近代史へと誘ってくれた、チェーザレ・ストラディバリ。その傍らにもう一つお墓がありました。   Luigi Illica 1857-1919 ルイージ・イリカ。イリカはプッチーニと組んで、名作「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」などを残した、オペラ台本作家です。イリカはカステルアルクワートに生まれました。作家として活躍したのはミラノで、没したのはカステルアルクワートの郊外のまちコロンバローネです。現在でも生家が残っており、いつまでこの家を所有していたのかは不明ですが、たまにミラノから帰郷しては、この家で執筆活動をしていたのかもしれません。1961年より国際イリカ賞が設立され、オペラ界・芸術界で活躍した人へ送られており、その中には、マリア・カラス  プラシド・ドミンゴ パバロッティ  デル・モナコ映画監督のルキーノ・ヴィスコンティとそうそうたる顔ぶれです。 (この街を治めたヴィスコンティ家の末裔が、この街の著名人に表彰されるというのも、長い歴史の面白味を感じます。) そしてなんと、イリカの生家は現在、日本人の方が所有しています。 全て改装し、とても素敵なデザインホテルとして使用されています。 http://www.casaillica.com/所有者の義理の妹さんでフランス人の方が案内してくださいました。エントランスの廊下には所有者の日本の家紋が入っていたり、「蝶々夫人」をイメージした着物がかかっていたり、日本からの芸術家のお客さんが多いそうで、日本の墨絵などもかかっていたりと、  西洋と和、過去と現在の融合した、とても個性的な空間でした。 そして、イリカの生家の隣にはイリカ記念館があり、館長をストラディバリ家7代目アントニア・ストラディバリが務めています。ここにもまた、長い歴史の巡り合わせがありました。 中世の佇まいを残す小さなこの街で、土地の記憶のレイヤーを一枚ずつ剥がしていくと、それぞれが色彩豊かな音楽の歴史で輝いており、それが土地のプリズムとなって、また新たな人を呼び寄せて、新しい色が加わる。これがイタリアの強みであると感じる旅でありました。

Castell'arquato  カステルアルクワート                                               写真提供:Nagano Taro氏クレモナから南に30キロ。ピアチェンツァの丘にある、中世の町並みをそのまま残す風景明媚な街。オペラが好きな方なら、プッチーニのお抱え脚本家Luigi Ilicaが住んだ街として聞いたことのある方もいるかもしれません。そしてバイオリン製作家ならば、ストラディバリのお城があり、町外れにぶどう畑も持っていた。こういう”噂”を聞いたことがあるかもしれません。先日この”噂”の真相について、全容を知る機会を得ることができました。 週末天気がいい日などは、他のクレモナ人に習って私も足を伸ばし、お茶をして帰ってくることがよくあります。先日も日本からいらっしゃった方と共に、カステルアルクワートを散策している折、大聖堂の裏庭で、こんなものを見つけました。 Cesare StradivariDa Cremona''Delle scienze mediche celebrato cultore – apostolo di libertà con Mazzini patì carcere austriaco – soldato con Duce dei Mille a Palermo al Volturno a Bazzecca – nemico di ogni tirannide sacerdotale o regia moriva nell'Ottantaduesimo anno d'età 20 giugno 1880 sognando una ben altra Italia''.     チェーザレ ストラディバリクレモナ出身         医学の権威  マッツィーニの自由思想の使徒となるオーストリアに収監される   千人隊としてパレルモからバゼッカまで従軍全ての宗教的・政治的な専制に反対する82歳 1880年6月20日没素晴らしいイタリアを願い眠るここに書かれているマッツィーニとは「イタリア統一運動」の思想的支柱となった人物です。そして千人隊とは、赤シャツ隊とも呼ばれ、エマニュエレ二世の加護により、ジュゼッペ・ガリバリディーが率いた、「イタリア統一軍」のことです。ストラディバリの名を持つ者が、イタリア統一に関わっている!? クレモナに帰るやいなや、ストラディバリ家を一番よく知る人物にすぐに電話をしました。ストラディバリ家8代目、ルカ・ストラディバリです。 (実は個人的にストラディバリ家の末裔と親しくしており、カステルアルクワートのお城で夕食をおよばれしたこともありまして。)彼の返答はとてもシンプルで明確でした。  「あれ、散々街に来ておいて知らなかったの?」 あなたが言わないからですよ、と言い返すよりも好奇心がまさり、詳しいことをメールで書いてくれるよう頼みました。そこから、ほとんど知られていない、近代のストラディバリ家の歩が見えてきました。                ・~・~・~・~・~・~・~・~・~偉大なバイオリン製作家アントニオ・ストラディバリは10人の子供をもうけました。 その10男、パオロ・ストラディバリは繊維業で財をなし、兄弟で唯一家族を持ちます。家族から受け継いだ 父アントニオ・ストラディバリのバイオリンや道具達を、早々と売り払ったところを見ると、音楽とは無縁だったようで、その後、子孫も音楽から離れていきます。そしてアントニオ・ストラディバリから数えること4代目、チェーザレ・ストラディバリは、イタリア統一論を唱えるマッツィーニに感化され、ガリバリディー率いる千人隊に従軍医師として、クレモナから参加します。その後、イタリア統一が果たされると、チェーザレ・ストラディバリはクレモナには帰らず、バチェダスコ・アルトという地域に広大な土地を購入し、ぶどう畑を耕しながら余生を過ごします。 しかし最期は森で行方不明となり、結局見つかることはありませんでした。そして行方不明となった日付とともに、バチェダスコ・バッソの教会に石碑が作られます。 同じく4代目次男ピエトロ・ストラディバリは公証人でしたが、1860年にロンバルディア州がサルデーニャ州の自治権の下に移ると、クレモナは県として独立し、ピエトロ・ストラディバリはクレモナ初の県知事となります。クレーマをクレモナ県に合併する手続きを行ったことが記録に残っています。その後チェーザレ・ストラディバリの息子、五代目リベロ・ストラディバリが、カステルアルクワート にお城を完成させます。(建設中、父チェーザレがカステルアルクワートに来ることはなかったようです。)このお城は、中世の街並みが残るカステルアルクワートに馴染むよう、”中世風”に作ってあり、「Castello di Stradivari ストラディバリの城」と名付けられます。ストラディバリ城が絵葉書にもなるなど街のシンボルとして知れ渡った頃、リベロ・ストラディバリの息子6代目マリオ・ストラディバリのもとに、市長が訪ねてきます。そして彼らに提案をしました。「この街に、初代・楽器製作家アントニオ・ストラディバリが別荘を持っていたことにしてくれないか」と。どうやら観光資源にしたかったようなのです。もちろんこの提案は断りましたが、1945年にはチェーザレ・ストラディバリのお墓を、バチェダスコからカステルアルクワートの中心に移すことを承諾します。そして元々お墓があったバチェダスコの街道には「CostaStradivari」の名前も付けられました。                                          写真提供:Nagano Taro氏今、噂で「アントニオ・ストラディバリの別荘があった街」と言われているのは、これに起因するのです。70年の時を経て、この市長さんの企みが成功しつつあるようですね。現在は7代目アントニア・ストラディバリと息子8代目ルカ・ナターリ・ストラディバリが、別荘として使っています。お城の中は、6代目マリオ・ストラディバリがハンティングで獲ってきた、巨大なイノシシや鹿の頭の剥製が所狭しと掛かり、お城がレプリカだとは思えないほどの荘厳さを醸し出しています。                                  ・~・~・~・~・~・~・~・~・ほとんど知られていない、ストラディバリ家のその後。華々しくはなくとも、しっかりとストラディバリの名を継ぐものとして、歴史に、土地の記憶に、その名を刻んでいました。8代目ルカは現在音大生。作曲の勉強中。その名に恥じぬよう、頑張れ!さて、そんな歴史の旅へといざなってくれたカステルアルクワート。実はこれで終わりではないのです。この街は、日本人との意外な関係がありました。続きます。 *クレモナには「今のストラディバリ家がアントニオ・ストラディバリの末裔だというのは嘘だ」 なんていう噂もあるようです。  2005年に「ストラディバリ」の商標を巡って裁判があり、調査書類提出により、 「正式なストラディバリ家の末裔であり、商標はこの一族に帰属する」 との判決が出ています。 おそらくこの裁判の過程で、偽物との噂が流布したのではと思われます。 クレモナは小さな村社会ですので、こんな噂が出るのですね。

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