二つの狂気が出会う時
関西弦楽器製作家協会の展示会が昨年に続き今年も展示会が中止となってしまいました。今年は特別展としてガルネリ・デル・ジェスのカノーネモデルの楽器展が予定されておりました。そして、そこで設置する事になっていた解説パネルを私が執筆させて頂いておりました。お蔵入りとなっておりましたが、折角ですので、ここで公開させて頂きます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「パガニーニは繰り返さない」これはイタリアではよく聞くフレーズです。同じ事を繰り返すのが面倒な時によく使われる言い回しで、サルデーニャ国王カルロ・フェリーチェ王に頼まれてもアンコールをしなかったというパガニーニの逸話から来ています。 そんな、音楽史の中でも異彩を放つ天才バイオリニスト、ニコロ・パガニーニ(1782-1840) 彼の生涯は余りにも沢山の伝説や逸話に纏われ、生涯を正確に把握する事がとても難しいバイオリニストです。特に、青年期の19歳から22歳にかけては、突然全てのキャリアを捨て、聴衆の前から消えた「謎の時代」と呼ばれており、その足跡は正確には分かっていません。 数少ない資料の中で、友人に宛てた直筆の手紙に「この頃は農家仕事に従事して、ギターを弾いていた」また、「令嬢の家に転がり込んでいた」と書き残しており、既にイタリア国内では天才として絶大な名声を手に入れていた彼が、音楽の世界から離れようとしていたのは間違いないようです。 しかし、この時期に彼は、その音楽性をさらに開花させるバイオリンとの出会いをしていたのです。このバイオリンとの出会いについて彼は何度も違う証言をしていますが、当初、「コンサートのために訪れていたリボルノで、賭博に負けバイオリンを手放す事になったが、フランス人商人が現れバイオリンを贈られた」と語っていました。しかし晩年、友人へ送った手紙には、「1804年22歳の時にミラノのピーノ将軍からバイオリンを贈られた」と記しており、こちらは他の資料とも一致します。 繰り返さないはずのパガニーニが、何度も脚色してまで語るほど重要な出会いとなったバイオリン、それがガルネリ・デル・ジェスの1743年製のバイオリン、後にその力強い音質から「カノーネ(大砲)」と呼ぶ事になるバイオリンでした。 パガニーニはこの楽器に導かれる様に、彼の代名詞とも言える名曲「24のカプリース」の作曲に取り掛かって行きます。その後パガニーニは、大スターへと上り詰めていき、その名声に惹きつけられるかのように、数々の名器が彼の元へ集まってきました。しかし、彼は最後まで「カノーネ」を弾き続けたのです。 この若きパガニーニを魅了し、その音楽性を開花させたガルネリ・デル・ジェスの名器「カノーネ」とは一体どういう楽器なのでしょうか。 ガルネリ・デル・ジェス(Bartolomeo Giuseppe Guarneri 1698ー1744)のバイオリンは、それまでのバイオリン製作の歴史を覆すほど独創的で、その造形から生み出される音もまた、他に代えがたい魅力を放っています。 それを決定づけているのは、何といってもその独特なボディとF字孔です。 Guarneri del Gesu"Cannone" VS Stradivari "Cremonese" ストラディバリと比べるてみると、上下のボリュームはどちらも似ているのに対し、ガルネリ・デル・ジェスのC部が大きく開いているのが分かります。実際に計測すると、ストラディバリよりも平均して3mmもC 部が開いています。 この独特のアウトラインは、ベースはジロラモ・アマティが完成させた「グランドパターン」からの影響が指摘されており、特に1740年以降の最晩年はその一致率がより高くなっていく一方で、C部の開きはより増していく事になります。 そして、ガルネリ・デル・ジェスのF字孔は、後期になるほど大胆に長くなっていき、1740年以降はその傾向がより顕著に現れます。その中でも最晩年のカノーネなどは、ストラディバリのF字孔よりも5mmも長くなっており圧倒的な長さを誇っています。 Guarneri del Gesu"Cannone" VS Stradivari "Cremonese" 現代の音響解析の技術では、楽器のボディがどの周波数を増幅するかを見ることが出来るのですが、ガルネリ・デル・ジェスは、堅牢さとF字孔が影響する周波数(A0 mode)がとても高く、強く検出されます。この周波数は楽器の音全体に影響を及ぼし、特に低音においては如実に表れ、強く出るほど低音の音量に影響すると考えられています。この事が「迫力のある低音」と形容されるガルネリ・デル・ジェス独特の音を作っているのではないかと考えられています。そして高音域においても、表板F字孔周辺と裏板の中心部が大きく隆起して起こる周波数(C4 mode)が強く出ています。これもストラディバリでは殆ど見られない周波数で、これが「カノーネ」では「豊かな高音」と形容された音を作っているとも考えられているのです。 Modal Analyze of Guarneri model by SHOTARO NISHIMURA 更に、マサチューセッツ工科大学の実験では、F字孔のアウトラインに沿ってエネルギーを放出する事が分かっており、ガルネリ・デル・ジェスのF字孔の圧倒的な長さは、クレモナのバイオリン製作の開祖であるアンドレア・アマティのF字孔よりも30%もエネルギーを多く発生させている事が分かっています。この事が、「カノーネ(大砲)」とパガニーニが呼んだほど遠くにまで届くエネルギーを発生させているのかもしれません。 この様に、ガルネリ・デル・ジェスは意匠として伝統を覆しただけでなく、その音響効果もそれまでにないものを生み出していた事が、最新の研究で分かってきているのです。 Acousticians and fluid dynamicists at MIT, この楽器史の中でも狂気と言えるほどの異彩を放つガルネリ・デル・ジェス、その中でも突出した楽器「カノーネ」。そして、音楽史を変えるほどの才能をまだ持て余していた若きパガニーニ。この二つが出会った時、音楽の歴史の歯車がまた動き出したのでした。 1837年、死期を悟ったパガニーニが、愛器「カノーネ」を故郷のジェノバ市に、永遠に保管する事を条件に寄贈する事を申し出でます。以降、現在でもジェノバ市のトゥルジ宮「パガニーニの間」にて大切に保管されています。そして、その向かいには、とてもよく似た楽器が展示されています。 1833年パリ、パガニーニがバイオリン製作家ジャン=バティスタ・ヴィヨーム(1798-1875)の下に、「カノーネ」の修理を依頼します。ビヨームは早速この「カノーネ」をコピーし、パガニーニに贈呈しました。このコピー楽器もパガニーニが終生大切にしました。亡くなる数か月前に、弟子のカミッロ・シヴォリに売り、その代金であった500フランを御礼としてヴィヨームへと送っています。そんな素敵な関係を結んだビヨームの楽器、これが史上初めての「カノーネのコピー」です。 その後、数多くの有名製作家達がその後へと続き、「カノーネ」を参照しコピーをしてきました。長い楽器史の中でも、特定の楽器がここまで参照されるているのは、この「カノーネ」以外にありません。もはや一つの様式となっています。 天才パガニーニをパガニーニたらしめ、そして数々の名工を魅了し続けているガルネリ・デル・ジェスの「カノーネモデル」。残念ながら、展示会は開催中止となってしまいました。しかし、まだこの展示会の為に製作された特別な楽器をお持ちの製作家もいらっしゃるかと思います。是非、お近くの会員のお店にお尋ねください。 ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。国内外の製作家を訪問し製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。現在は作曲家クラウディオ・モンテヴェルディの生家に工房を構えている。 2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。Projecto A.N.I.M.A研究員District of Cultral Violin Making Cremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長 ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫ ∫
それでも残るもの
昨年、日本の音楽雑誌サラサーテへ寄稿させて頂きました。新型コロナウイルスの第一波に襲われていたクレモナについて執筆いたしました。ここに再編集して掲載いたします。 2月19日、一人の中年男性がクレモナの国立病院に緊急搬送されました。病院の上層部が緊急で招集され、感染症医師のパン氏もそこへ呼ばれました。遂にクレモナでもあのコロナウイルスが確認された、との報告を受け緊急で専用外来を設置、感染拡大に備えました。しかし、既に感染拡大は気づかぬ間に広がっていたのです。専用外来を設置した直後から「Tsunami 津波」の様だと表現されたほどの数の患者さんが病院へと運ばれてきました。そしてクレモナの国立病院は1週間後には新型コロナウイルス患者受け入れ専用の病院として体制を緊急で構築する事を迫られました。こうして、クレモナの新型コロナウイルスとの闘いは始まりました。 日々増え続ける患者さんを受け入れるため、周辺の病院からもベットや医療設備が運び込まれ、最終的には950床にまで増床されました。現場は予期せぬ事態に混乱を極め、感染症対策には向いていない構造のセクションなどもあり、最終的には医療スタッフの10%が感染してしまい、現場から退く事になりました。そして、その中で一人の医師が命を落としてしまいました。この医師(御遺族に配慮し詳細は伏せます)は神経内科の医師でしたが、彼が勤務する神経内科のセクションも新型コロナウイルス患者を受け入れを開始し、神経内科のスタッフ全員が対応に当たる事になりました。然し彼は重い病気を患っており、まだ治療が完了していない状態であった為に現場に出る事はリスクが高いと、周囲は止めました。しかし彼は、「自分のセクションに来た患者さんが、命を落としていくのを黙って見ているわけにはいかない」と、リスクを承知で現場に立ち続け、患者さんの治療に当たり続けました。ウイルスは人間が少しでも油断をすると見逃しません、連日休みなく治療にあったっていた彼自身も残念な事に新型コロナウイルスに倒れたのでした。 ニュースなどを観ていると、新型コロナウイルスに対応する医療スタッフは皆、防護服にフェースシールドにマスクを着け、一見するとまるで患者さんとは異質の、観察者の様な距離を感じます。しかし、実際に中に入っているスタッフも同じ人間なのでした。そして、それは自分の恐怖を心の隅に押しやって誰かのために尽くし戦い続けている人間なのでした。都市封鎖下でも感染が広がったクレモナでは、夫婦や家族で運び込まれてくる人達も多くおりました。そこで、少しでも家族や夫婦が一緒にいられるようにと、部屋割りに頭を悩ませるスタッフ達がいました。一緒に運び込まれ、奥さんだけが集中治療室に運ばれた時、心配する旦那さんに奥さんの日々の病状を報告し続け、人工呼吸器が外せるまでに回復した時には、旦那さんと一緒に泣いて喜んだ人達がいました。そして皆、本当に感謝しながら退院していきました。世界でも苛烈を極めたクレモナの病院は、世界中にショッキングな映像ともに連日報道されておりました。ですが、そこは報道で感じるほど殺伐としていた訳では有りません。厳しい中でもしっかりと人間味のある現場でした。 感染が急拡大していた3月中旬、アメリカのボランティア医療団体サマリタンパースが大量の医療設備を伴った専用機でクレモナへ降り立ちました。クレモナのバイオリン博物館の設立にも尽力した、クレモナの名士アルベディ氏が滞在費用を全て負担し、招聘したのです。彼らはアフリカ、コンゴのエボラ対策やイラク戦争の野戦病院に従事するなど、百戦錬磨の医師達で、わずか1日で80床の仮設病棟を作り上げ、直ぐに患者さんの受け入れを開始しました。クレモナの病院との連携により完璧なサポート体制を築き上げ、献身的な治療により数多くの患者さんの命を救いました。そして感染が落ち着き始めた5月中旬、彼らは本国アメリカへと引き上げる事になりました。その際のスピーチで、このチームを率いていた若き女性医師ケリー氏は言葉に詰まり、泣き始めました。その時、百戦錬磨の彼らにとっても苛烈な現場だったのかと皆が思いました。然しそうではなかったのです。彼女は言いました。「今まであらゆる過酷な現場に立ってきましたが、私達をここまで温かく迎え入れてくれた国は有りませんでした。患者さんからスーパーのレジ係の人まで、本当に家族のように接してくれて、この国を離れるのがつらくなりました」と。もう一人のスタッフもインタビューで語ります「患者さん同士が直ぐに仲良くなり、スタッフも交えてまるで古くからの友人のように談笑していました。そして一人が退院すると、いつの間にか電話番号を交換していて、毎日の様に電話をかけては、まだ退院できていない患者さんを励ましていたのです。こういう現場を始めてみました」と。 イタリアには「Umanità人間味」が有ります。社会が窮地に陥ったとき、医療も経済も政治も必要です。しかし、それは機能面の回復でしかありません。この人間味こそが、絆を深め孤独を遠ざけ、心の傷をいやし、立ち直らせてくれるのだと思います。そして、これこそが長い歴史の中で何度も危機を経験してきたイタリアの、また立ち上がる力、レジリエンスであり、知恵であり強みだと思います。音楽を楽しまれている皆さんであれば、イタリア音楽のあのなんとも甘く、時にドロドロとした、人間味溢れる表現を味わわれたことが有るかと思います。それが人を創造へと駆り立て、人を魅了し、そして私はそれが人を救いもするのだという事を目の当たりにしました。 イタリアは数多くのものを失いました。課題もまだまだ山積しております。それでも人間味は失っておりません。イタリアは大丈夫です。また立ち上がります。皆さんも是非イタリア音楽を楽しんで頂き、この人間味を心の糧にして頂ければ幸いです。 西村翔太郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。District of Cultral Violin Making Cremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長
バイオリンのスクロールはどこから来たのか ~古代オリエント潮流は渦を巻く~
イタリアを歩いていると、教会や住居など、あちこちに立体的な渦巻装飾を見る事が出来る。20年前にイタリアに住み始めた時、バイオリンのスクロールと同じモチーフが街中に溢れている所を見て、バイオリンが生れた国なのだと至極、納得したものである。 バイオリンは歴史の集合体といっても良いほど、様々な歴史を内包している事は、過去の記事で繰り返し書いてきた。一つ前の記事でも、F字孔の歴史について触れ、以前の記事ではヴェネツィアの歴史にまで言及した。そんなバイオリンのパーツの中でも、圧倒的に長い歴史を内包しているパーツがある。それがバイオリンの上部についているスクロール・渦巻である。弓で弾く楽器自体の歴史ではせいぜい1300年前に遡る程度だが、スクロール・渦巻装飾となると4000年以上前にまで遡る事になるのである。そしてその過程では日本との繋がりまで見えてくる事になる。 そもそも楽器にスクロール装飾が様式として用いられだしたのは、バイオリンの先祖であるViola da Braccio、後期Lira da Braccio辺りの事である。(Viola da Braccioと後期Lira da Braccioは名称が混同して使われることが多く判別も難しい)それ以前の楽器Viuella(Viella)では垂直にペグを刺して弦を巻く機構が主に使われていた。しかし同時代、より細かな調弦が可能な、北アフリカ・イスラム圏で使われていた後期ラバーブの「ペグボックス」の機構が、後期Ribecaで用いられ始める。これは小型で調弦が難しいRibecaには必要であった為と思われるが、このペグボックスの機構が後期Viuellaでも用いられはじめ、後のViola da Braccioにも採用されていく事になる。 その角度を付け流線型を描くペグボックスの機構を、そのまま切って終わるのでは造形感覚としてはなんだか不自然だ。その為、ペグボックスの上に様々な装飾が付けられていく事になる。ライオンの頭や、人や天使の頭、貴族の紋章、そしてその中にスクロール・渦巻装飾も施されるようになっていく。その後、バイオリンへと発展した時、あくまで装飾のため表現は自由な箇所であるはずで、たしかに初期にはライオンや天使の頭の装飾も見られたものの(ドイツなどでは暫く続いた)、初期のバイオリンから直ぐにスクロール・渦巻装飾がメインとなっていったのは、Viola da Braccioにスクロールが多く見られた事、そして何より、バイオリンがクレモナへと伝わった時、クレモナのバイオリン製作の開祖であるアマティ家がスクロールを作り続け、それが後のメインストリームとなっていった事が大きいのではないだろうか。この辺りについては、また別の機会に詳しく見て行こうと思う。 Rebec (Ribeca) Lira da Braccio Viola da Braccio con i tasti では、この楽器にも取り入れられた「渦巻装飾」が一体どこから来たのかを見ていきたいと思う。渦巻装飾はプリミティブなものでは、文化的な交流がなく独立的に発展したものが世界各地で見られる。日本の縄文土器にも見られ、世界各地のその殆どが、太陽や海の渦潮、生命や永遠をモチーフにしており、人類にとって根源的なデザインである事がよくわかる。その中で、西洋において有名なものには、クレタ島(現ギリシャ)のミノア文明のカマレス土器があり、紀元前3500年にまで遡る。 その中で様式化されて世界中へと広がっていったものに、「ケルト系統」と「エジプト・メソポタミア・ギリシャ系統」がある。その内、バイオリンの渦巻装飾へ直接繋がっているのは、エジプト・メソポタミア・ギリシャ系統である。古代エジプトで生まれたとされる代表的な装飾の一つに「パルメット紋様」がある。紀元前3000年前には人工栽培が始まっていたヤシ(Palmo)の一種、棕櫚(シュロ)の葉をシンボルとするモチーフで、古代エジプトでは、繰り返し葉を生やし続けるヤシは生命の樹とされており、神殿の柱や祭壇など様々な箇所に施されていた。(この習慣が後に古代イスラエルに伝わり、キリストが受難を前にエルサレムに入城した時に市民がヤシの葉を道に轢いて迎えた事から、復活祭の前の日曜日をパームサンデーPalmSunday(Domenica del Palmo)という)それほど神聖視されたヤシのモチーフは、メソポタミア文明のバビロニアやアッシリアへと受け継がれながら変形を繰り返し、葉の部分が徐々にデフォルメされ渦を巻くかのようにカーブが強調されるようになっていく。 古代エジプト パルメット的柱頭 紀元前3200年 古代エジプト パルメットモチーフの石板 紀元前575年 新バビロニア イシュタット門 紀元前6世紀末メソポタミア タイル 古代オリエント このメソポタミアのパルメット紋様が地中海世界方面へと広がる中で、紀元前10世紀頃から地中海の覇権を握っていたフェニキア人にも取り入れられ、フェニキア様式にも取り込まれていく。フェニキア様式を代表する装飾にエジプト由来の二匹のグリフォンのモチーフがあるが、その中心にはパルメット紋様が刻まれている。そのパルメット紋様の細部をみると判るが、渦巻装飾がより強調、デフォルメが進み、渦巻を描くようになる。そして、この渦巻装飾が独立し、柱の頭の装飾である柱頭装飾に用いられ「プロト・アイオリス様式柱頭」が生れる。 紀元前8世紀 古代アッシリア北部 フェニキア様式 紀元前8世紀 古代レバノン(フェニキア人の故郷) 象牙 紀元前8世紀 古代アッシリア 象牙 紀元前8世紀 古代ユダヤ プロト・アイオリス柱頭 この写真のプロト・アイオリス柱頭は、昨年に公開された古代ユダ帝国(現イスラエル)で紀元前8世紀頃に作られたとみられる、王族の宮殿の柱で、フェニキア人によって作られた柱頭にはパルメット紋様の葉のモチーフが残っている。恐らくこれが現存する最古級のプロト・アイオリス柱頭であり、このプロト・アイオリス柱頭こそが、バイオリンへと繋がっていく、ごく初期に渦巻装飾が独立して「3次元の立体」で彫られた装飾であると思われる。このプロト・アイオリス柱頭こそバイオリンのスクロールの直接の起源である。 フェニキア人によるフェニキア様式にも拘らず、プロト・アイオリス柱頭と呼ばれるのは、それ以前に発掘されていたアイオリス柱頭の起源だからである。アイオリス柱頭は、古代ギリシャの小アジア西岸北部・アイオリス地方(現トルコ西岸)に紀元前10世紀ごろから古代ギリシャ人が入植したアイオリス人によって作られた柱頭で、フェニキア人の様式を取り入れ発展し、プロト・アイオリス様式とほぼ同じであるが、さらに渦を巻くようになり、造形がより立体的に彫り込まれている。 アイオリス柱頭中間にはパルメットが見える アイオリス柱頭根元で繋がっていてフェニキア様式パルメットの名残が見える 古代ギリシャの地図 紀元前5世紀頃、このアイオリス柱頭が古代ギリシャの小アジア西岸南部・イオニア地方に伝わり、イオニア式柱頭へと発展する。それまで、パルメット紋様で繋がっていた二つの渦巻がハッキリと二つに分かれ、渦巻はよりデフォルメ・強調されるようになっていき、中間のパルメット紋様はより小さく、またはなくなっていった。イオニア式のモチーフは柱頭装飾以外にも広く用いられ、グリフォンの台座などにもみられるようになる。先述した、メソポタミアのグリフォンにパルメット紋様のモチーフの影響を見て取れる。このイオニア式柱頭は後述するが、ヨーロッパ中で用いられているモチーフで、見た事がある方も多いのではないだろうか。 イオニア式柱頭 アテネ エレクテイオン神殿のイオニア式柱頭 家具やストラディバリの装飾でも用いられた渦巻の最後に花のモチーフは既に初期イオニア式に見られる イオニア式柱頭が生れた同じ時代、柱頭の装飾以外でも渦巻き模様は発展していった。パルメット紋様が広がるにつれて。徐々にアカンサス(アカントス)紋様と呼ばれる、ハアザミの葉とツタのモチーフが混ざりだし、そのツタの部分がくるくると渦を描くようになり、渦巻装飾がより複雑になっていく。このギリシャ人の発展のさせ方には、原形の堅い幾何学的図形をはぎ取るのではなく、なよやかな生き生きしさを原形に与えたいとの思いが見て取れ、いかにもギリシャ文化を感じさせる。これがアレクサンドル大王の東方遠征を機にヘレニズム文化として東方に広がっていき、ガンダーラ美術にまで到達した。別のエジプト由来の蓮のロータス紋様とも融合しながら、インダス、中国と伝わり、仏教伝来と共に7世紀頃には工芸品などに施されて日本へと伝わり、その後、日本人にも見慣れた唐草紋様へと発展していくのである。日本人にとって一番見慣れているのは通称「ドロボウ風呂敷」とも言われるアレだが、様々なモチーフで着物の柄や皿の絵付けなどに取り入れられている。そして、建築においては屋根の頂点、破風の装飾である「懸魚」である。名前だけではピンとこない方も多いと思うが、写真を見て頂ければ見慣れたものと分かって頂けるだろう。懸魚はパルメット彫刻その物といえる造形である。 紀元前408年 アテネ ギリシャ古典期以降のパルメットのバリエーション 着物の唐草模様 姫路城の懸魚 話が一脱したが、これら複雑化した渦巻装飾がギリシャのヘレニズム文化、アルカイック期から古典期の代表的な装飾になっていく事になる。立体的な渦巻装飾では、先ほどのイオニア式柱頭から1世紀後の紀元前5世紀にアテネにて、コリント式柱頭が生れる。コリント式という名前はアテネより東部の街コリントスで生まれたと言われた事に由来するが、実施にはアテネで生まれたとされる。因みに、このコリント式の誕生には伝承が残っており、 "コリントスの彫刻家コリマコスがお墓を通りかかると、幼くして亡くなった少女のお墓にお供え物としておかれていた籠にアカンシアの葉とツタが包むように絡まっていたのが余りにも美しく、この彫刻家はコリント式の装飾を生み出した" というものである。確かに籠をアカンシアのツタが下から這うように配され、葉の間から、特徴的な渦巻きが4つから8つ飛び出している造形である。イオニア式柱頭からコリント式柱頭が生れたのか、既に生まれていたパルメット紋様の間に這うアカンシアのモチーフから、独立的に生まれたのかは未だ定かではない。この渦巻装飾の柱頭、イオニア式とコリント式に、簡素なドーリア式を加えた3つが、ギリシャの古典建築のオーダーとしてローマ帝国へと入っていく。ローマ帝国では、イオニア式とコリント式を合体させたコンポジット式も生み出され、渦巻彫刻が更に強調されていく。これにトスカーナ式もくわえた5つが、古典主義建築の基礎として定着していく。 コリント式 コンポジット式 ローマ式オーダー 紀元前1世紀頃、イタリアにアカンシアの渦巻装飾が入ってくると、より躍動的で複雑になっていく。特に細く優雅なツタの表現はイタリアの特徴で、教会のファザードやモザイクの装飾などでインハビティッドスクロールと呼ばれる、鳥獣やライオン、天使や人などの周りに細く優雅なツタの渦巻装飾が施されるようにもなっていく。この流れから、楽器の装飾にライオンの頭や天使、そしてスクロールが採用される文化的下地が形成されたと思われる。少し話がそれるが、下のタイル画の写真を見て、見覚えがある方もいるかもしれない。ストラディバリの装飾楽器に施されているモチーフはまさにこの、インハビティッドスクロールである。ルネサンス時代以降、洞窟(グロッタ)の中からこういった古代ローマ帝国のモチーフが発掘され、グロテスク様式としてもてはやされた影響が見て取れる。上に掲載している写真の注釈にも書いたが、ストラディバリの装飾楽器のスクロールの最後に花柄があしらわれているものが有るが、イオニア式前期にはまさにスクロールに花があしらわれたものが有り、イタリア式のアカンシア模様へと受け継がれたモチーフである。ストラディバリの美術への造詣の深さを思い知らされる。 紀元前9年 ローマ アラ・パキス インハビタントスクロールモデナ 大聖堂ファザード 紀元前1世紀 ローマ帝国占領下のギリシャ食堂のタイル 展示会カタログより ルネサンス時代に入ると、暗黒時代と呼ばれた中世の、ゲルマン民族との軋轢や宗教による抑圧的な文化からの解放を求める機運の中、オスマン帝国の進行などもありギリシャの学者などがイタリアへと入植し始め、人間中心主義の自由な表現であったギリシャ・ローマ帝国文化の復興が進められていく。その中で、改めて渦巻装飾の柱頭をはじめとするオーダーが復活していく事になる。 この激動の時代、市民のうねりや情念を体現するかのように、アカンサスの渦巻装飾は更に複雑さを極めていき、そのツタが張り巡らされるがごとく、建築から紙に至るまで、富裕層の馬車から庶民のテーブルや教会のベンチの脚にまで、あらゆるところにこのモチーフは広がっていった。その中で、楽器職人と木工職人の棲み分けが曖昧であった背景もあり、バイオリンの祖先にあたるViola da Braccio、後期Lira da Braccioのペグボックスの先端に、渦巻装飾のスクロールが取り入れられていったのである。 Viola da Braccio(Lira da Braccio)サンタ・マリア・マッダレーナ教会 クレモナ バイオリンの上に鎮座するスクロール、それは古代エジプト・メソポタミア文明から繋がる、壮大な古代オリエント・地中海世界のシンボルであり、古代エジプト信仰からギリシャ神話、果ては仏教までをも内包する、人類の文化のDNAに刻まれた螺旋なのである。世界中の様々な文化へと広がり続ける楽器バイオリンになんとも相応しい装飾である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長
F字孔のエアフロー ~音は孔雀の羽ように広がる~
ダーウィンは孔雀が嫌いであった。孔雀と言えば、あのオスが優雅に広げる絢爛豪華な羽だが、あれがダーウィンをイライラさせた。それはなぜ孔雀のオスが絢爛豪華な羽を獲得し生き残っているのか、ダーウィンの進化論のベースとなっている自然選択説ではどうしても説明がつかなかったからだ。『種の起源』で主張した自然選択の論理では、生き残る為により有利である形質が残り、受け継がれる事になっている。しかしどう考えても、孔雀の雄の羽は生き残るには不利だ。広げた途端、天敵に「どうぞ食べて下さいと」アピールしているようなもの。さらに、たたむのにも時間が 掛かり、逃げる為の飛翔能力も著しく低下している。どうしてもこの非実用的な羽の説明が見つからないダーウィンは、『人間の由来と性の選択』において、オスとメスの社会的関係に依存する、つまり純粋な見た目の好みで生殖有利が発生すると言う性淘汰説を発案し、説明をつけることにした。こうして、ダーウィンの提唱した進化論は、自然選択説と性淘汰説の二本柱で発展していくことになる。(孔雀については分子生物学に移行した現在でも研究者を悩ませている) さて、なぜこの話をしたかというと、バイオリンに開いているF字孔の進化について、進化論的に言及する研究がマサチューセッツ工科大学から出たからである。 バイオリンは機能と優雅さを両立させている。各部位のデザインは1000年もかけて進化し、機能美の極致と言っても良い域に達している。バイオリンを思い浮かべる時、その優雅さを決定づけているのはF字孔では無いだろうか。流体的な曲線の中にも角があり、しっかりとラインを引き締めていて、優雅さの中に厳格さと気品をたたえている。 このF字孔など、楽器に開いている穴を共鳴孔と呼ぶが、この共鳴孔は7世紀にラバーブから発展したケメンチェには既に見られる構造だ。それらの楽器がバイオリンへと進化する中で、共鳴孔はF字孔へと進化していった。当初、円形や半円形だったものが徐々にF字孔へと進化したのは、楽器の構造の変化と耐久性の面、音響面、そして美しさにおいて優れている形へと、様々な形を試行錯誤し、自然淘汰が行われてきた結果だ。この事は、「バイオリンは"突然" "クレモナ"で生れた」などと断言する事無く、欧米で楽器の歴史に触れたことが有る製作家であれば認識している事である。しかし、一般的にはF字孔が生まれた経緯を一次元的にまた神秘的に語られる事がとても多い。(昨年末のイタリアの国営テレビの番組で著名な美術史家が「バイオリンのF字孔はクレモナの大聖堂のファザードの装飾から採用されたのである」と断言していて、閉口してしまった。) マサチューセッツの論文より。各楽器の時代設定が間違えているので注意 2015年マサチューセッツ工科大学で行われた実験は、1500年にも及ぶ歴史の中で、弦楽器製作者が一体何をしてきたのかを鮮やかに説明してくれている。楽器は弦で発生したエネルギーを楽器が共鳴して増幅し、音へと変換されるのだが、その時、楽器のボディーはポンプのような動きをし、空気が共鳴孔から一気に押し出される。この現象は「エアフロー」と呼ばれる。マサチューセッツ工科大の流体力学の研究グループが、各楽器のエアフローの様子を視覚化することに成功した。 この時のエネルギーの分布を見ると、アウトラインの周辺だけでエアフローは起こっており、中心部では殆どエネルギーの放出が起こっていなかったのである。つまり、穴の面積だけを広げても、構造的に弱くなるだけで、音響効果はさほど見込めないということだ。共鳴孔が円形から半円、そして複雑な流線型へと至ったのは、構造的により強固でありながら、外周を増やすことでエアフローが起きる面積を増し、音響効果も向上させていたのである。共鳴孔の変化は、ただ見た目の美しさを追い求めていただけではなかったのである。これを感覚と経験だけで1000年かけて進化させた、数々の職人達に頭がさがる思いだ。まさに自然選択説と同じ原理でF字孔も進化していたのである。 ではF字孔が完成してからの500年間はどうであったのか。進化は歩みを止め、装飾美の追求に終始してきたのであろうか。マサチューセッツ工科大の論文ではそこにも言及している。実は、バイオリンのF字孔も少しづつ長くなっているのである。これはバイオリンのF字孔についての別の音響研究でも明らかなように、音響効果を向上させている。しかしマサチューセッツ工科大学の論文では、作家ごとの長さの違いはナイフによる誤差の範疇で、0.5mmずつ長くなっており、2世紀の間に30%長くなり、エアフローが60%上昇させていると結論付けている。コピーエラーが起こる過程で、より美しいものが選ばれた結果、音響的にも進化したという性淘汰説的な観点から語られていたのである。正確には性淘汰説の中でも、見た目の好みが偶然に生存に有利な遺伝子の発現にも関わっているとする、指標説的な観点であろか。 確かにそういう事もあったであろう。しかしこれには製作家として違和感が残る。我々製作家にとって、0.5ミリは完全にコントロールしなければならない数値だ。過去の偉大な製作家の手の中で偶然起こり得るには無理がある。例外はガルネリだが、1800年代以降はガルネリモデルすら様式化されコントロールされてきた。製作家からすれば、F字孔のデザインは、より美しく更に音楽家からの評価も高い、過去の成功例を参照しコピーされ、意識的に受け継がれた形質なのだという方が妥当である。 生物が進化するのは、自然の摂理か神の手か。人間を超越したものが介在する。楽器を進化させるのは製作家だ。今一度、この新しい実験を元に、より意識的に楽器の進化に介在しなくてはならないと思う。 ーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)