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 イタリアを歩いていると、教会や住居など、あちこちに立体的な渦巻装飾を見る事が出来る。20年前にイタリアに住み始めた時、バイオリンのスクロールと同じモチーフが街中に溢れている所を見て、バイオリンが生れた国なのだと至極、納得したものである。 バイオリンは歴史の集合体といっても良いほど、様々な歴史を内包している事は、過去の記事で繰り返し書いてきた。一つ前の記事でも、F字孔の歴史について触れ、以前の記事ではヴェネツィアの歴史にまで言及した。そんなバイオリンのパーツの中でも、圧倒的に長い歴史を内包しているパーツがある。それがバイオリンの上部についているスクロール・渦巻である。弓で弾く楽器自体の歴史ではせいぜい1300年前に遡る程度だが、スクロール・渦巻装飾となると4000年以上前にまで遡る事になるのである。そしてその過程では日本との繋がりまで見えてくる事になる。 そもそも楽器にスクロール装飾が様式として用いられだしたのは、バイオリンの先祖であるViola da Braccio、後期Lira da Braccio辺りの事である。(Viola da Braccioと後期Lira da Braccioは名称が混同して使われることが多く判別も難しい)それ以前の楽器Viuella(Viella)では垂直にペグを刺して弦を巻く機構が主に使われていた。しかし同時代、より細かな調弦が可能な、北アフリカ・イスラム圏で使われていた後期ラバーブの「ペグボックス」の機構が、後期Ribecaで用いられ始める。これは小型で調弦が難しいRibecaには必要であった為と思われるが、このペグボックスの機構が後期Viuellaでも用いられはじめ、後のViola da Braccioにも採用されていく事になる。 その角度を付け流線型を描くペグボックスの機構を、そのまま切って終わるのでは造形感覚としてはなんだか不自然だ。その為、ペグボックスの上に様々な装飾が付けられていく事になる。ライオンの頭や、人や天使の頭、貴族の紋章、そしてその中にスクロール・渦巻装飾も施されるようになっていく。その後、バイオリンへと発展した時、あくまで装飾のため表現は自由な箇所であるはずで、たしかに初期にはライオンや天使の頭の装飾も見られたものの(ドイツなどでは暫く続いた)、初期のバイオリンから直ぐにスクロール・渦巻装飾がメインとなっていったのは、Viola da Braccioにスクロールが多く見られた事、そして何より、バイオリンがクレモナへと伝わった時、クレモナのバイオリン製作の開祖であるアマティ家がスクロールを作り続け、それが後のメインストリームとなっていった事が大きいのではないだろうか。この辺りについては、また別の機会に詳しく見て行こうと思う。                    Rebec (Ribeca) Lira da Braccio Viola da Braccio con i tasti  では、この楽器にも取り入れられた「渦巻装飾」が一体どこから来たのかを見ていきたいと思う。渦巻装飾はプリミティブなものでは、文化的な交流がなく独立的に発展したものが世界各地で見られる。日本の縄文土器にも見られ、世界各地のその殆どが、太陽や海の渦潮、生命や永遠をモチーフにしており、人類にとって根源的なデザインである事がよくわかる。その中で、西洋において有名なものには、クレタ島(現ギリシャ)のミノア文明のカマレス土器があり、紀元前3500年にまで遡る。                           その中で様式化されて世界中へと広がっていったものに、「ケルト系統」と「エジプト・メソポタミア・ギリシャ系統」がある。その内、バイオリンの渦巻装飾へ直接繋がっているのは、エジプト・メソポタミア・ギリシャ系統である。古代エジプトで生まれたとされる代表的な装飾の一つに「パルメット紋様」がある。紀元前3000年前には人工栽培が始まっていたヤシ(Palmo)の一種、棕櫚(シュロ)の葉をシンボルとするモチーフで、古代エジプトでは、繰り返し葉を生やし続けるヤシは生命の樹とされており、神殿の柱や祭壇など様々な箇所に施されていた。(この習慣が後に古代イスラエルに伝わり、キリストが受難を前にエルサレムに入城した時に市民がヤシの葉を道に轢いて迎えた事から、復活祭の前の日曜日をパームサンデーPalmSunday(Domenica del Palmo)という)それほど神聖視されたヤシのモチーフは、メソポタミア文明のバビロニアやアッシリアへと受け継がれながら変形を繰り返し、葉の部分が徐々にデフォルメされ渦を巻くかのようにカーブが強調されるようになっていく。 古代エジプト パルメット的柱頭 紀元前3200年 古代エジプト パルメットモチーフの石板 紀元前575年 新バビロニア イシュタット門 紀元前6世紀末メソポタミア タイル 古代オリエント  このメソポタミアのパルメット紋様が地中海世界方面へと広がる中で、紀元前10世紀頃から地中海の覇権を握っていたフェニキア人にも取り入れられ、フェニキア様式にも取り込まれていく。フェニキア様式を代表する装飾にエジプト由来の二匹のグリフォンのモチーフがあるが、その中心にはパルメット紋様が刻まれている。そのパルメット紋様の細部をみると判るが、渦巻装飾がより強調、デフォルメが進み、渦巻を描くようになる。そして、この渦巻装飾が独立し、柱の頭の装飾である柱頭装飾に用いられ「プロト・アイオリス様式柱頭」が生れる。 紀元前8世紀 古代アッシリア北部 フェニキア様式  紀元前8世紀 古代レバノン(フェニキア人の故郷) 象牙 紀元前8世紀 古代アッシリア 象牙 紀元前8世紀 古代ユダヤ プロト・アイオリス柱頭  この写真のプロト・アイオリス柱頭は、昨年に公開された古代ユダ帝国(現イスラエル)で紀元前8世紀頃に作られたとみられる、王族の宮殿の柱で、フェニキア人によって作られた柱頭にはパルメット紋様の葉のモチーフが残っている。恐らくこれが現存する最古級のプロト・アイオリス柱頭であり、このプロト・アイオリス柱頭こそが、バイオリンへと繋がっていく、ごく初期に渦巻装飾が独立して「3次元の立体」で彫られた装飾であると思われる。このプロト・アイオリス柱頭こそバイオリンのスクロールの直接の起源である。  フェニキア人によるフェニキア様式にも拘らず、プロト・アイオリス柱頭と呼ばれるのは、それ以前に発掘されていたアイオリス柱頭の起源だからである。アイオリス柱頭は、古代ギリシャの小アジア西岸北部・アイオリス地方(現トルコ西岸)に紀元前10世紀ごろから古代ギリシャ人が入植したアイオリス人によって作られた柱頭で、フェニキア人の様式を取り入れ発展し、プロト・アイオリス様式とほぼ同じであるが、さらに渦を巻くようになり、造形がより立体的に彫り込まれている。                    アイオリス柱頭中間にはパルメットが見える アイオリス柱頭根元で繋がっていてフェニキア様式パルメットの名残が見える 古代ギリシャの地図  紀元前5世紀頃、このアイオリス柱頭が古代ギリシャの小アジア西岸南部・イオニア地方に伝わり、イオニア式柱頭へと発展する。それまで、パルメット紋様で繋がっていた二つの渦巻がハッキリと二つに分かれ、渦巻はよりデフォルメ・強調されるようになっていき、中間のパルメット紋様はより小さく、またはなくなっていった。イオニア式のモチーフは柱頭装飾以外にも広く用いられ、グリフォンの台座などにもみられるようになる。先述した、メソポタミアのグリフォンにパルメット紋様のモチーフの影響を見て取れる。このイオニア式柱頭は後述するが、ヨーロッパ中で用いられているモチーフで、見た事がある方も多いのではないだろうか。 イオニア式柱頭 アテネ エレクテイオン神殿のイオニア式柱頭 家具やストラディバリの装飾でも用いられた渦巻の最後に花のモチーフは既に初期イオニア式に見られる                イオニア式柱頭が生れた同じ時代、柱頭の装飾以外でも渦巻き模様は発展していった。パルメット紋様が広がるにつれて。徐々にアカンサス(アカントス)紋様と呼ばれる、ハアザミの葉とツタのモチーフが混ざりだし、そのツタの部分がくるくると渦を描くようになり、渦巻装飾がより複雑になっていく。このギリシャ人の発展のさせ方には、原形の堅い幾何学的図形をはぎ取るのではなく、なよやかな生き生きしさを原形に与えたいとの思いが見て取れ、いかにもギリシャ文化を感じさせる。これがアレクサンドル大王の東方遠征を機にヘレニズム文化として東方に広がっていき、ガンダーラ美術にまで到達した。別のエジプト由来の蓮のロータス紋様とも融合しながら、インダス、中国と伝わり、仏教伝来と共に7世紀頃には工芸品などに施されて日本へと伝わり、その後、日本人にも見慣れた唐草紋様へと発展していくのである。日本人にとって一番見慣れているのは通称「ドロボウ風呂敷」とも言われるアレだが、様々なモチーフで着物の柄や皿の絵付けなどに取り入れられている。そして、建築においては屋根の頂点、破風の装飾である「懸魚」である。名前だけではピンとこない方も多いと思うが、写真を見て頂ければ見慣れたものと分かって頂けるだろう。懸魚はパルメット彫刻その物といえる造形である。                     紀元前408年 アテネ ギリシャ古典期以降のパルメットのバリエーション 着物の唐草模様 姫路城の懸魚                  話が一脱したが、これら複雑化した渦巻装飾がギリシャのヘレニズム文化、アルカイック期から古典期の代表的な装飾になっていく事になる。立体的な渦巻装飾では、先ほどのイオニア式柱頭から1世紀後の紀元前5世紀にアテネにて、コリント式柱頭が生れる。コリント式という名前はアテネより東部の街コリントスで生まれたと言われた事に由来するが、実施にはアテネで生まれたとされる。因みに、このコリント式の誕生には伝承が残っており、 "コリントスの彫刻家コリマコスがお墓を通りかかると、幼くして亡くなった少女のお墓にお供え物としておかれていた籠にアカンシアの葉とツタが包むように絡まっていたのが余りにも美しく、この彫刻家はコリント式の装飾を生み出した" というものである。確かに籠をアカンシアのツタが下から這うように配され、葉の間から、特徴的な渦巻きが4つから8つ飛び出している造形である。イオニア式柱頭からコリント式柱頭が生れたのか、既に生まれていたパルメット紋様の間に這うアカンシアのモチーフから、独立的に生まれたのかは未だ定かではない。この渦巻装飾の柱頭、イオニア式とコリント式に、簡素なドーリア式を加えた3つが、ギリシャの古典建築のオーダーとしてローマ帝国へと入っていく。ローマ帝国では、イオニア式とコリント式を合体させたコンポジット式も生み出され、渦巻彫刻が更に強調されていく。これにトスカーナ式もくわえた5つが、古典主義建築の基礎として定着していく。 コリント式 コンポジット式 ローマ式オーダー              紀元前1世紀頃、イタリアにアカンシアの渦巻装飾が入ってくると、より躍動的で複雑になっていく。特に細く優雅なツタの表現はイタリアの特徴で、教会のファザードやモザイクの装飾などでインハビティッドスクロールと呼ばれる、鳥獣やライオン、天使や人などの周りに細く優雅なツタの渦巻装飾が施されるようにもなっていく。この流れから、楽器の装飾にライオンの頭や天使、そしてスクロールが採用される文化的下地が形成されたと思われる。少し話がそれるが、下のタイル画の写真を見て、見覚えがある方もいるかもしれない。ストラディバリの装飾楽器に施されているモチーフはまさにこの、インハビティッドスクロールである。ルネサンス時代以降、洞窟(グロッタ)の中からこういった古代ローマ帝国のモチーフが発掘され、グロテスク様式としてもてはやされた影響が見て取れる。上に掲載している写真の注釈にも書いたが、ストラディバリの装飾楽器のスクロールの最後に花柄があしらわれているものが有るが、イオニア式前期にはまさにスクロールに花があしらわれたものが有り、イタリア式のアカンシア模様へと受け継がれたモチーフである。ストラディバリの美術への造詣の深さを思い知らされる。 紀元前9年 ローマ アラ・パキス インハビタントスクロールモデナ 大聖堂ファザード 紀元前1世紀 ローマ帝国占領下のギリシャ食堂のタイル   展示会カタログより  ルネサンス時代に入ると、暗黒時代と呼ばれた中世の、ゲルマン民族との軋轢や宗教による抑圧的な文化からの解放を求める機運の中、オスマン帝国の進行などもありギリシャの学者などがイタリアへと入植し始め、人間中心主義の自由な表現であったギリシャ・ローマ帝国文化の復興が進められていく。その中で、改めて渦巻装飾の柱頭をはじめとするオーダーが復活していく事になる。            この激動の時代、市民のうねりや情念を体現するかのように、アカンサスの渦巻装飾は更に複雑さを極めていき、そのツタが張り巡らされるがごとく、建築から紙に至るまで、富裕層の馬車から庶民のテーブルや教会のベンチの脚にまで、あらゆるところにこのモチーフは広がっていった。その中で、楽器職人と木工職人の棲み分けが曖昧であった背景もあり、バイオリンの祖先にあたるViola da Braccio、後期Lira da Braccioのペグボックスの先端に、渦巻装飾のスクロールが取り入れられていったのである。 Viola da Braccio(Lira da Braccio)サンタ・マリア・マッダレーナ教会 クレモナ  バイオリンの上に鎮座するスクロール、それは古代エジプト・メソポタミア文明から繋がる、壮大な古代オリエント・地中海世界のシンボルであり、古代エジプト信仰からギリシャ神話、果ては仏教までをも内包する、人類の文化のDNAに刻まれた螺旋なのである。世界中の様々な文化へと広がり続ける楽器バイオリンになんとも相応しい装飾である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏  (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長

 ダーウィンは孔雀が嫌いであった。孔雀と言えば、あのオスが優雅に広げる絢爛豪華な羽だが、あれがダーウィンをイライラさせた。それはなぜ孔雀のオスが絢爛豪華な羽を獲得し生き残っているのか、ダーウィンの進化論のベースとなっている自然選択説ではどうしても説明がつかなかったからだ。『種の起源』で主張した自然選択の論理では、生き残る為により有利である形質が残り、受け継がれる事になっている。しかしどう考えても、孔雀の雄の羽は生き残るには不利だ。広げた途端、天敵に「どうぞ食べて下さいと」アピールしているようなもの。さらに、たたむのにも時間が 掛かり、逃げる為の飛翔能力も著しく低下している。どうしてもこの非実用的な羽の説明が見つからないダーウィンは、『人間の由来と性の選択』において、オスとメスの社会的関係に依存する、つまり純粋な見た目の好みで生殖有利が発生すると言う性淘汰説を発案し、説明をつけることにした。こうして、ダーウィンの提唱した進化論は、自然選択説と性淘汰説の二本柱で発展していくことになる。(孔雀については分子生物学に移行した現在でも研究者を悩ませている) さて、なぜこの話をしたかというと、バイオリンに開いているF字孔の進化について、進化論的に言及する研究がマサチューセッツ工科大学から出たからである。  バイオリンは機能と優雅さを両立させている。各部位のデザインは1000年もかけて進化し、機能美の極致と言っても良い域に達している。バイオリンを思い浮かべる時、その優雅さを決定づけているのはF字孔では無いだろうか。流体的な曲線の中にも角があり、しっかりとラインを引き締めていて、優雅さの中に厳格さと気品をたたえている。 このF字孔など、楽器に開いている穴を共鳴孔と呼ぶが、この共鳴孔は7世紀にラバーブから発展したケメンチェには既に見られる構造だ。それらの楽器がバイオリンへと進化する中で、共鳴孔はF字孔へと進化していった。当初、円形や半円形だったものが徐々にF字孔へと進化したのは、楽器の構造の変化と耐久性の面、音響面、そして美しさにおいて優れている形へと、様々な形を試行錯誤し、自然淘汰が行われてきた結果だ。この事は、「バイオリンは"突然" "クレモナ"で生れた」などと断言する事無く、欧米で楽器の歴史に触れたことが有る製作家であれば認識している事である。しかし、一般的にはF字孔が生まれた経緯を一次元的にまた神秘的に語られる事がとても多い。(昨年末のイタリアの国営テレビの番組で著名な美術史家が「バイオリンのF字孔はクレモナの大聖堂のファザードの装飾から採用されたのである」と断言していて、閉口してしまった。) マサチューセッツの論文より。各楽器の時代設定が間違えているので注意  2015年マサチューセッツ工科大学で行われた実験は、1500年にも及ぶ歴史の中で、弦楽器製作者が一体何をしてきたのかを鮮やかに説明してくれている。楽器は弦で発生したエネルギーを楽器が共鳴して増幅し、音へと変換されるのだが、その時、楽器のボディーはポンプのような動きをし、空気が共鳴孔から一気に押し出される。この現象は「エアフロー」と呼ばれる。マサチューセッツ工科大の流体力学の研究グループが、各楽器のエアフローの様子を視覚化することに成功した。 この時のエネルギーの分布を見ると、アウトラインの周辺だけでエアフローは起こっており、中心部では殆どエネルギーの放出が起こっていなかったのである。つまり、穴の面積だけを広げても、構造的に弱くなるだけで、音響効果はさほど見込めないということだ。共鳴孔が円形から半円、そして複雑な流線型へと至ったのは、構造的により強固でありながら、外周を増やすことでエアフローが起きる面積を増し、音響効果も向上させていたのである。共鳴孔の変化は、ただ見た目の美しさを追い求めていただけではなかったのである。これを感覚と経験だけで1000年かけて進化させた、数々の職人達に頭がさがる思いだ。まさに自然選択説と同じ原理でF字孔も進化していたのである。  ではF字孔が完成してからの500年間はどうであったのか。進化は歩みを止め、装飾美の追求に終始してきたのであろうか。マサチューセッツ工科大の論文ではそこにも言及している。実は、バイオリンのF字孔も少しづつ長くなっているのである。これはバイオリンのF字孔についての別の音響研究でも明らかなように、音響効果を向上させている。しかしマサチューセッツ工科大学の論文では、作家ごとの長さの違いはナイフによる誤差の範疇で、0.5mmずつ長くなっており、2世紀の間に30%長くなり、エアフローが60%上昇させていると結論付けている。コピーエラーが起こる過程で、より美しいものが選ばれた結果、音響的にも進化したという性淘汰説的な観点から語られていたのである。正確には性淘汰説の中でも、見た目の好みが偶然に生存に有利な遺伝子の発現にも関わっているとする、指標説的な観点であろか。  確かにそういう事もあったであろう。しかしこれには製作家として違和感が残る。我々製作家にとって、0.5ミリは完全にコントロールしなければならない数値だ。過去の偉大な製作家の手の中で偶然起こり得るには無理がある。例外はガルネリだが、1800年代以降はガルネリモデルすら様式化されコントロールされてきた。製作家からすれば、F字孔のデザインは、より美しく更に音楽家からの評価も高い、過去の成功例を参照しコピーされ、意識的に受け継がれた形質なのだという方が妥当である。  生物が進化するのは、自然の摂理か神の手か。人間を超越したものが介在する。楽器を進化させるのは製作家だ。今一度、この新しい実験を元に、より意識的に楽器の進化に介在しなくてはならないと思う。 ーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。ダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏  (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)

 昨年は自由に飛び回る事が叶わず、常に模索する日々でした。 今年の干支は牛 牛と聞いて夏目漱石が、スランプに悩む芥川龍之介へ宛てた手紙を思い出しました。  牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。 人間を押すのです。文士を押すのではありません。 是から湯に入ります。                 夏目金之助    芥川 龍之介 樣 焦るなと夏目漱石に嗜められ、新年から背筋が伸びました。今年も宜しくお願い申し上げます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏 (ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏  (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏  (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏   (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)

 昨年の関西弦楽器製作者協会のコラムに寄稿したものを転載致します。  こんにちは。イタリアのクレモナでバイオリン製作を行っている西村翔太郎です。今年でイタリアに住んで18年が経ち、丁度人生の半分をイタリアで過ごした事になりました。イタリアの風景も既に日常となり、もはや日本の風景のほうが感慨深く感じる様になりましたが、やはりバイオリン製作という伝統工芸に携わっていると、予期せず、ある事象が突然に歴史と一つ、また一つと繋がっていき、思いもよらぬ所へと導かれ、あらためてイタリアの奥深さに瞠目させられる時があります。  2012年にクレモナのバイオリン製作家が、ユネスコ世界遺産の無形文化遺産に選ばれました。それを機に、2018年よりガリンベルティ市長の号令の下、複数あるクレモナの製作家協会やグループを統括するDistretto Culturale della Liuteria(バイオリン製作家ディストリクト)が立ち上がりました。このディストリクトにはユネスコやカリパルマ銀行からの支援金が下りており、ワークショップや講演会、ストラディバリやガルネリの弾き比べ演奏会など、製作家に向けたイベントが一気に増えることになりました。その中の活動の一つとして、研究プロジェクトが有ります。計画案を提出して認可が下り、進行中のプロジェクトが現在3つあります。バイオリン博物館主導のバンク・オブ・サウンド、バイオリン製作学校主導のT.A.R.L.Oそして私が所属する A.N.I.M.A です。この A.N.I.M.Aは、パヴィア大学とミラノ工科大学と共同で、数ある伝統的な木材処理を、最新の分子生物学と音響学の二つの側面から解析していくプロジェクトです。木材処理は製作の様々な過程で行われているのですが、音質改善や見た目の改良、処理後の加工の容易さなど、目的も様々です。しかし、その効果と影響を科学/化学的に評価したものは殆どなく、感覚や経験則に頼るしかありませんでした。そこを明らかにしていくのがこのプロジェクトです。研究の初期段階から既に予想とは反する解析結果が複数出ていて、驚いている所です。  そんなグラフと数字を見つめる日々の中、ある論文が目に留まりました。昨年発表された、台湾とニューヨークの研究チームがストラディバリの楽器の木質を解析した論文なのですが、異常な数値の天然由来のナトリウムが検出されていました。そして同時期に製作された他の国の楽器では検出されていませんでした。それを読んだとき、得も言われぬ感覚に陥りました。グラフと数字を読んでいる自分が、歴史と一つ、一つと繋がり、思わぬ方向へ流されていく感覚です。  クレモナはイタリア最長の河川、ポー川に面した街です。ストラディバリが活躍していた当時、川は物資の輸送の要、今で言う高速道路の役割を果たしており、数多くの大都市が河川沿いに発展しました。ストラディバリなど、クレモナの製作家たちはポー川で結ばれたヴェネツィアから運ばれてくる木を使ってバイオリンを製作をしたと言われてきました。その事について初めて言及したのが、史上初めてのバイオリンコレクターでもある、コッツィオ・ディ・サラブーエ伯爵(1755-1840)です。彼はストラディバリやガルネリを大量に集め、その偏執的な性格からCarteggioと呼ばれる膨大な量の記録を残しました。その中で、「ストラディバリが使用していた木はヴェネツィアのアルセナーレに水中貯木して寝かした木を使用していた」という記述があるのです。しかし、これが書かれたのはストラディバリが死んで40年ほど後、ストラディバリのニスのレシピの記述など、今では明らかに間違いであると判る記述もあるので、信憑性がそれほど高いものでありませんでした。 コッツィオ・ディ・サラブーエ伯爵(1755-1840)     ヴェネツィアの「アルセナーレ」とは造船所の事を指します。造船といってもヴェネツィア名物のゴンドラを作るところではなく、主にガレー船といわれる、輸送船または海戦用の軍艦を作っていたところです。  ヴェネチア共和国は700年代から1700年代後半まで約1000年続いた、歴史上最も長く続いた共和国で、その安定した政治体制から別名、「La Reppublica Serenissima平穏の共和国」 と呼ばれていました。しかし実情は、中東への飽くなき覇権拡大から絶えず他国と交戦し、交易を拡大、国を挙げての中東への観光事業を行うなど、それはそれは騒がしい都市でした。 そして、その基幹を担っていたのが、造船業です。輸送を担った巨大なガレー船はもちろん全てが木製で大量の木材が必要となりました。その需要に応えるためヴェネチアには、その圧倒的な領土と財力で、東は東欧から、北はアルプスから大量に木材が昼夜を問わず運ばれて来ていました。運ばれてきた材木はまず、ヴェネツィア南部で税関もあるザッテレ地区に運ばれていました。ザッテレとはイタリア語で「いかだ」「木材運搬用いかだ」の事。木材業者が地名の由来となっています。そのザッテレ地区で仕分けした後、ヴェネツィア東部の造船所アルセナーレに運ばれていました。 1700年代の記録によると、1年間に42万本もの木材が運び込まれていました。既にヴェネチア共和国が衰退し始めていた時代でこの数ですから、その旺盛さには目を見張るものが有ります。当時のアルセナーレの記録に、「木材をむやみに損失した者は、死を持って償う」との文言があり、これでもまだまだ木材が不足していた様子がうかがえます。アルセナーレの職人たちが木を削る様子は、ダンテの「神曲」地獄篇の中でも美しく謳われています。  この運ばれてきた大量の木材は製材を待つ間、水中貯木と言って水の中に浮かせていました。こうすることで急激な乾燥での割れを防いだり、水中微生物の効能への期待など、日本でも行われている伝統的な方法です。 造船所アルセナーレ ガレー船 木材を運搬するイカダZattera このアルセナーレに水中貯木されていた木の中で、交易でクレモナに運ばれてきた木をストラディバリが使っていたと言われてきたのです。 昨年のストラディバリの木質を解析した研究では、天然由来のナトリウムが大量に検出されました。大量にナトリウムが木質の中にまで入り込むにはある程度漬け込む必要があります。木材研究では、水中貯木では丸太の芯材にまで均等に水が浸透するには18か月かかるとされる研究があります。そしてヴェネツィアのアルセナーレは海水です。その事から今回の結果は、ストラディバリがアルセナーレで水中貯木していた木を使っていた証拠になり得ます。 そして、この研究には続きがあります。このナトリウム成分が長期間の演奏による木質の変化(リグニン・ヘミセルロースの崩壊)を促進しており、ストラディバリの独特な音質の要因になっていると結論付けています。  これが事実だとすれば、1000年の繁栄を誇った共和国が衰退していく中で、 最後に大輪の花を咲かせるかのように、文化が大きく花開き人々が狂乱していたヴェネチアの片隅で、職人たちの働く音だけが響く造船所が、バイオリンの「音のゆりかご」になっていたようです。  最新の解析技術と数字を見つめながら、意識が歴史の彼方へ流されていき、 まるでアルセナーレの木の様に漂っている感覚。  まだまだクレモナからは離れられそうにありません。  今年のアルセナーレ2019「アルセナーレ」の語源はアラブ語の技術工場を意味するDaras-Sina ahから来ています。常に他国と交易を行い異文化を受け入れ、守護聖人までもエジプトから持ってきてしまうヴェネツィア。現在のアルセナーレは、現代アートと最新建築の展示会場になっていて、なんでも受け入れてきたヴェネツィアの神髄を今でも見せてくれています。 --------------------------- 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員 主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏 (ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏  (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏  (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏   (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)

先日、高機能シャツブランド、Decollouomoさんから、取材をして頂きました。 子供の頃の話から、イタリアに渡った理由、そして今後の展望まで、幅広く話しをさせて頂きました。普段、このブログでは話さないような内容ですので、ご興味のある方は下記のリンクからどうぞ。 decollouomo story 08 – 西村翔太郎 氏【海外に出ていく日本人の為のシャツ!着る人のパフォーマンスと美意識のどちらも満足させるデッコーロウォモ】 ---------------- 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者 アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏  (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)

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