クリスマスコンサート 2017
「音楽の贈り物~世界へ羽ばたく子供たちのために~」と題して、シンガポールから始まったこの企画も第三弾となりました。音楽は「音」で出来ています。音は楽器が周りの空気を震わせ、それが鼓膜を震わせた時に音になり、音楽が生まれます。一つの震えが、他のものに伝わって、もう一つのものが同じ震えをすることを、「共鳴」と言います。なにも、人の鼓膜だけが共鳴するわけではありません。人の心も共鳴します。音楽家が心を震わせて音楽を奏でる時、聴いている人の心も震えます。この心の震えは音楽が止んでも、止まりません。心の震えは、また他の場所で他の人の心を震わせたり、子供たちの心のなかで、希望の音へと変わると信じています。今年も音楽を受け取ってくれた子供たちが、とても素直に喜んでくれました。その屈託ない笑顔は、私達への最高のクリスマスプレゼントとなりました。 ーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)
夕暮の雲のように ~Viola 39cm mod.Andrea Guarneri~
small Viola 39cm mod.Andrea Guarneri Salb cut back like a "Sunset Clouds" 「大理石」のような裏板も、ニスを塗ると柔らかくなり 「夕暮れの雲」の様になりました。 製作風景 ーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)
Slab Cut Back Viola ~柾目・スラブカットのビオラ~
Viola 39cm Mod. Andrea Guarneri "Conte Vitale" 1679 この大理石のような裏板。 初めて見る方も居るかもしれない。これは一般的なバイオリンと同じメープル(楓)の樹だが、普段目にする虎のような杢目のメープルとは製材の仕方が違うだけである。 虎のような杢目が出ている裏板は、丸太の中心から放射状に切って製材していて、柾目・Quarter cutと呼ばれる。表板は必ずこの製材の板を使う。 それに対して、この大理石のような杢目が出ている裏板は、丸太の中心に対して、横断的に切って製材したもので、これを板目・Slab cutスラブカット(英)・Tangenziale(伊)と呼ばれる。 このスラブカットに製材されたメープルのうち、樹皮の近くで稀に粒状の杢目がたくさん現れることがあり、これはまるでその粒状の杢目が鳥の目に似ている事から”バーズアイ”と呼ばれ、ギター製作などでも珍重されている。 スラブカットの裏板は、クレモナのバイオリン製作の開祖アンドレア・アマティの頃から使われていた。アマティ家は主に王侯貴族を顧客に抱え、楽器にペインティングを施すなど優美さを重視していて、この大理石のような独特な輝きを放つスラブカットが好まれた理由の一つである。 しかし、ニコロ・アマティの弟子であったフランチェスコ・ルジェーリもスラブカットのバイオリンを多く残しているが、彼はチェロの歴史検証から、市井の音楽家を顧客にしていたと推測されている。 この事から、見た目だけではなく、音響的な理由からも好まれて使われていたと考えられるのである。 スラブカットの板は、上記の図でわかるように、木目(冬目)が縦方向に密で均等に並んでおらず、柔らかい木目がない部分(夏目)が大半を占めるため、板の強度が比較的弱く、音が柔らかくなる傾向がある。木目は振動の伝達スピードを上げる役割を担っているため、この点からも弦の振動の高周域を吸収・増幅しない特徴を持つ。 1600年後半まで王侯貴族のサロンや小さな劇場で演奏されていたバイオリンは、ガット弦が張られネックの角度も低く、現代のバイオリンと比べて音量も音の張りもあまりなく、少人数でその優美な音を楽しむ楽器であった。この様な用途に合わせて、スラブカットの板で柔らかく深い音の楽器を作るのは比較的容易なため(もしくは、単純に音の張りを出す必要が無いため)、ルジェーリも積極的に用いたのではないだろうか。そして、同じ理由でルジェーリは、チェロにポプラを多用していたのだと思われる。 しかし、徐々にブルジョア階級が力を持ち始めると、音楽は大衆のものへとなっていき、大型の劇場で派手な曲に大がかかりなオペラと、楽器に求められる性能も変化が生じてきた。 そこで、きたる1700年代の新しいニーズに向けて、一早くバイオリンを進化させたのがストラディバリであるが、彼は殆どスラブカットの裏板を使用していない。チェロにおいては同じ傾向のあるポプラも1700年以降使わなくなる。 やはり、音量と音の張りを求めだした時代に、スラブカットの持つ性格が合わないと判断したのではないだろうか。また樹の性格上、スラブカットのほうが長く乾燥させないと暴れやすいのだが、息子3人と弟子たちに楽器を製作させる、当時の大量生産体制を取っていたストラディバリには非効率に写ったのかもしれない。 こうして、現代ではスラブカットの裏板はバイオリンやチェロではあまり使われなくなっているが、ビオラでは比較的使われている事を目にする。現代のビオラ製作では、演奏者に負担のないサイズの中で、チェロのように深い音を実現することが一番の課題なのだが、こういった場合にスラブカットが有効な時がある。今回製作したビオラもまさにそれであった。 今回はバイオリンとの持ち替えが必要な方の依頼だったので、相談の結果、ビオラではほぼ最小のサイズ39cmに設計し、しかし小さなビオラとは感じさせない深い音を実現するために、スラブカットを採用した。 この木はストックしてから10年が経っていた。やはり私にとっても、スラブカットを使用することは稀である。もう一枚、同時期にストックしたスラブカットの板が有るが、次の出番はいつであろうか。 ーーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)
バイオリンのラベルから見えてくる、ミラノの都市の記憶
先日とあるバイオリニストの方が愛用している銘器、カルロ・フェルディナンド・ランドルフィが製作したバイオリンを見せて頂く機会があった。ランドルフィは1700年代半ばからミラノで活躍した製作家である。はっきりした出自は不明だが、40代になってからバイオリン製作を始めた様で、当時としてはかなり珍しい製作家だ。誰の元で学んだのかもわかっていないが、製作を始めた時期やスタイルなどから、GBガダニーニに学んだのではないかと言われることが多い。 バイオリニストの方に楽器を見せて頂いた折、ラベルについての質問を頂いた。 それは名前の下の一行はどういう意味であるかというものだった。 Contrada di Santa Margarita al Segno della Sirena 昔のバイオリンのラベルは、製作家名・製作された街の名前・製作年 とシンプルなのが普通である。 しかし、ランドルフィのものは、名前と街の名前の間に何かが記されていた。 ランドルフィの楽器はカタログや展覧会では見ていたが、ラベルを気にした事など一度も無く、Contradaという聞きなれない言葉。しかも、ミラノに住んでいた私でも聞いた事のない、教会の名前とおぼしきSanta Margaritaと書かれているに至り、完全に返答に窮してしまった。 しかし同時に、これはまた歴史を掘り下げる出発点を頂いたと感じ、早速調べてみることにした。 まずは餅は餅屋とばかりに、ランドルフィのプロフィールを色々なバイオリンの本やオンラインアーカイブで当たってみた。そこで解ったことは、ランドルフィだけでなく、1600年代後半から1700年代にかけてミラノで活躍した製作家のラベルには「Contrada~」と表記されているということだった。しかし、その表記が何かについて触れているものは一つも見当たらなかった。 こうなると直接、イタリアの歴史全体から炙り出していくしかなくなった。 このContrada コントラーダとは何か。 コントラーダとは、組合・共同体・町内会・道・教区と、時代や都市ごとに様々な意味で用いられた言葉であった。最もこのコントラーダの習慣が有名なのはイタリア中部トスカーナ地方で、特に町内会と言った趣が強く、住んでいる区画ごとにコントラーダが組織されていた。主な活動内容としては、お祭りの際にコントラーダ同士で争うチームの様なものだった。 今でもシエナの有名なお祭り”パリオ”では、コントラーダごとにチームを組んで争い、一般的にイタリア人がコントラーダと聞くと、先ずシエナの”パリオ”のチームを思い浮かべる。 一方ミラノのコントラーダは少し複雑であった。 ミラノは中世の時代まで、ローマ帝国時代に築かれた城壁で囲まれていた。1156年、ミラノは迫る新たな争いに備えて、城壁の周りを更に新たな城壁で囲み、水堀(Cerchia dei Navigli)で囲むという都市計画を行った。 そして城壁に6つの門を作り、その門に対応する形で街を6区分に分けた。これをSestiere(6区)と呼んだ。この6区の中を、更に5つに分けて教区や貴族の利権を分ける行政を行った。この区を5つに分けたものをコントラーダと呼んだ。これがミラノのコントラーダの始まりである。 区それぞれに旗が、そしてコントラーダごとにシンボルマークが作られた。時折ミラノの通りの名前で、「クマ通り」や「花通り」「羊通り」「雄鶏通り」など、可愛らしい名前がついているのを見かけるが、これはコントラーダのシンボルマークが由来になっている事が多い。 1300年代の城壁の模型 1300年代のコントラーダ Sestiere・6区それぞれの旗 しかしその後、都市の経済規模が大きくなるに連れて、コントラーダの意味が変わっていき、大きな通りをコントラーダ、小さな通りをviaと分けるようになっていく。しかし、単純に住所とは少し趣向が違い、それぞれの通り毎に同じ職業の人が集まり、店や工房を開いており、道の管理と同時に職業組合の意味合いを持たせたものでもあったようだ。 (この習慣はクレモナでもみられ、アマティ・ストラディバリ・ガルネリと、工房を同じ軒の下に連ねていたが、そこの一角は様々な木工職人が集まる、木工職人の区画の一部であった) 1500年代のミラノのコントラーダを示した地図を見ると、「彫金師のコントラーダ」や「小麦のコントラーダ」などと通りに書かれており、なんの職業が集まっていたのかが一目で分かる様になっていた。そして幾つかの通りは現代でもそのまま住所として使われている。 例えば昔のcontrada dei orefici(彫金師のコントラーダ)は今のvia dei orefici ではもう一度、ランドルフィのラベルを見てみよう。 Contrada di Santa Margarita al Segno della Sirena 「人魚のシンボルのサンタマルゲリータのコントラーダ」 これは何処だろうか。 サンタマルゲリータとある。これは職業由来のコントラーダではなく、教区から来るコントラーダである。そこで、1700年の地図を精査したところ、900年半ばに創建され、1786年に取り潰された「サンタマルゲリータ教会」があった事が分かった。 そして、この教会があった通りが 「サンタマルゲリータのコントラーダ」と呼ばれていた事に言及した記述をようやく発見したのである。どうやらランドルフィはこの通りに工房を構えていた様である。 このコントラーダは中世の6区のうち、北の門PortaNuovaに属していた地区で、現在でも通りの突き当りには門の跡が残っている。 1730年代の地図。赤い矢印が聖マルゲリータ教会の位置 現在のPortaNuova では「人魚のシンボル」の部分を見ていこう。 コントラーダが中世からの習慣としてシンボルを持っていた事は前述したが、コントラーダが通りの名前に変わってからも、かなり大きな通りの場合、どの辺りかを特定するためにシンボルが割り当てられていたようである。そしてランドルフィが工房を開いてた周辺が「人魚」をシンボルにしていたようである。 (ランドルフィの弟子、マンテガッツァの工房は同じコントラーダでもシンボルは「天使」であった) しかし何故、海と関係のないミラノで「人魚」をシンボルにしたのだろうか。 ここからは私の推論ではあるが、サンタマルゲリータ教会に祀られている聖女マルゲリータは、イタリアでは聖女マリーナ、聖女ペラギアと混同・同一視される事がある。 聖女マルゲリータの名前は「高価な真珠」を意味し、聖女マリーナは「海」を、聖女ペラギアは「海の女」を意味する。どの聖女の名前も海を連想させる名前である事から、今はなき教会の何処かに、目立つような形で「人魚」の装飾があったのではないだろうか。教会に人魚の装飾を施すことはローマ帝国時代からよく見られることであり、珍しいことでもない。そこからシンボルにしたのではないだろうか。あくまで推論であるが。 ミラノ・Sant'Ambrogio教会にある13世紀の人魚の装飾 話を戻すと、この通りはイタリア音楽の殿堂・スカラ座歌劇場の前まで続いていて、その先には、かつては大作曲家ジュゼッペ・ベルディが定宿にし、最後に息を引き取ったホテルGrand Hotel et de Milanもあった。ヴェルディが危篤状態に陥ると、道の騒音を聞かせまいと通りに藁が敷き詰められたという逸話も残っている。ヴェルディの最初の葬儀もこの通りから出発した。音楽にとても縁の深い通りなのである。 ジュゼッペ・ベルディの市民葬の様子1901年 そこにかつてランドルフィが工房を構えて、数々の銘器を産み出していた。 因みに、多少こじつけではあるが、聖マルゲリータと同一視される聖ペラギアは、音楽家の守護聖女である。 このように、歴史のレイヤーが同じ場所で幾重にも重なり、プリズムのように多彩に輝き出す瞬間こそが、イタリアの歴史を探っていく醍醐味である。 ランドルフィの時代にはもう既に、バイオリンが200年は残り、使われていくものだと認識をされていたはずである。そのバイオリンのラベルに、街の名前だけでなくコントラーダを、更にはシンボルまで書くというのは、彼の強い地域愛を感じるのは私だけであろうか。 コントラーダという響きは、ただの住所だけではない”連帯”と”誇り”のようなものを感じさせるからなのか。 それが、大聖堂の前の地区であるという特権階級的意識からくる誇りなのか、地域の人々への愛情から来る誇りなのか。それによってランドルフィの人柄も違ってくるのではあるが。 その人間味溢れる作風を見る限り、後者ではないかと私は想像する。 イタリアの歴史は、政治で形作られ、人間味で満たされている。 ーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)
New Guarneri mod. for Singapore
New Guarneri mod. for Singapore ーーーーーーーーーーーー 西村翔太郎 1983年 京都府に生まれ、9歳より長崎県で育つ。吹奏楽でトランペットを演奏していたことから楽器製作を志す。偶然テレビで見たオイストラフのドキュメンタリー番組に影響を受け、ヴァイオリンに興味を持つ。国内外の製作家を取材するなど製作家への道を模索しながら、高校時代に独学で2本のヴァイオリンを作り上げる。2002年 ガリンベルティを筆頭とするミラノ派のスタイルへの憧れから、ミラノ市立ヴァイオリン製作学校に入学。製作をパオラ・ヴェッキオ、ジョルジョ・カッシアーニ両氏に、ニス塗装技術をマルコ・イメール・ピッチノッティ氏に師事。2006年 クレモナに移住。クレモナトリエンナーレで最高位を獲得したダヴィデ・ソーラ氏のヴァイオリンに感銘を受け、この年から同氏に師事。2010年イタリア国内弦楽器製作コンクール ヴァイオリン部門で優勝と同時にヴィオラ部門で第3位受賞。2014年シンガポールにて、政府関係者や各国大使の前で自身が製作したカルテットでのコンサートを催す。2018年クレモナバイオリン博物館、音響・化学研究所によるANIMAプロジェクトの主要研究員を務める。2018年よりマレーシア・コタキナバルにて、ボランティア活動として子供達の楽器の修理やカンファレンスを行う。CultralViolinMakingCremona会員関西弦楽器製作者協会会員主な楽器使用者アレクサンダー・スプテル氏(ソリスト・元SSOコンサートマスター)森下幸次 氏 (ソリスト・大阪交響楽団コンサートマスター)木村正貴 氏 (東京交響楽団フォアシュピーラー)立木茂 氏 (ビオリスト・弦楽器指導者協会理事長)